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誰がために墓を掘る

うっかりお試しのTSUTAYAプレミアム見放題で、いまさらながら『ウォーキング・デッド』にハマり、コロナサバイバル気分を高めている昨今です。4月末現在、シーズン4鑑賞中(以下、ネタバレ含む)。

死んだ者が歩き出し、獣のように人を襲う世界。リックたち主人公グループが「ウォーカー (Walker)」と呼ぶゾンビ(出会うグループごとに バイター "Biter" や食人鬼 "Skin Eater" など呼称のブレがあるのがまた一興)は、この世界の与条件というか環境というか。

軸になるのは、極限状態における生存を賭けた人間ドラマ。シーズン1では、人種差別やDV、ジェンダーなどのトピックに分かりやすく触れる。

物語にはポリコレ配慮的に、いろんな人種が登場します。主人公リックは正義感の強い保安官、WASP。黒人はたいてい良い奴で、ヒスパニックは別グループか補佐役。アジア系(コリアン設定)を準主役に配しているのが親しみを感じます。これがまた良い若者で。

ゾンビ自体は、ジョージ・A・ロメロ監督が確立した"正統派"。すなわち、①死体がノソノソ動いて生者を襲い、②噛まれた者はゾンビ化、③動きを止めるには頭を潰す、というお作法通り。シーズン1のクライマックス、たどり着いた(いま話題の!)CDCで原因がウイルスらしいということが示唆される場面があるが、噛まれなきゃ大丈夫よ、とばかりにバンバン返り血浴びちゃったりしていたら、軒並み潜在感染者でやっぱりという展開も。ダメだよ、触った後はちゃんと手を洗わなきゃ……

分断が正当化される世の中

シーズン3から4にかけてリックたちが根城にするのが、廃墟となった刑務所。フェンスと鉄格子に囲まれて落ち着いたと思ったのも束の間、絶えずトラブルが続き、食用に豚を飼ったら突然死する(そしてウォーカーに転化する)インフルが蔓延。喀血し、手動の呼吸器を挿入する場面はCOVID-19を連想せざるを得ません。

そんな絶望的な状況下で、(キリスト教的な)正義とリーダーシップの意味を揺さぶるシーンをこれでもかとぶっ込みつつ、でもやっぱりそれをなくしたら人間じゃないよね、というところがいかにも米国らしい。対立する意見を捌くときは徹底的に合理的。さすがディベートのお国柄です。

そんな中、おそらく多くの日本人の感覚として違和を感じるかと思われるのが、いや主語がでかいな、少なくとも自分が違和感あったのが、死体の扱い。

例えば、初期のキャンプがウォーカーに襲われて、多数の犠牲者が出た翌朝のシーン(シーズン1:エピソード5)。
Glenn: Our people go in that row over there...We don't burn them! We bury them.
(仲間は向こうだ…燃やさない! 埋めるんだ)

農場の納屋に隠されていたウォーカーを一掃してしまった後(シーズン2:エピソード8)。
T-dog: And the others? That's a lot of digging.
Andrea: We bury the ones we love and burn the rest.

(T-dog: 他の死体は? 掘るの大変だぜ アンドレア:愛する者以外は燃やすわ)

死者のために墓を掘るという行為自体が、悼む時間として描かれている(それ故、シーズン1で悲劇に先行するジムの行為は不穏を煽る)。だがここでいう「仲間」「愛する者」という線引きはどこにあるのか?

死そのものに穢れや忌みを見出す日本の文化では、こうもキッパリと割り切れない気がします。一方で、劇中では他者が容易に信用できず、生者同志で殺し合うしかない状況が執拗に描かれる。そしてCOVID-19のある現在と、ウォーカーのいる世界は相似形。

コロナをどの程度意識しているか、あまりに感覚に開きのある人々とは距離を置きたくなる。知っている人にうつされるならまだマシだが、よく知らない人とわざわざ話してうつされたらたまらん。これまでは見知らぬ人や価値観の違うコミュニティとは相入れないながらも、それなりの付き合いをすることが良いと思ってきたが、断絶すべきという正当な理由ができてしまった。

ウォーカーは目に見えるからまだ始末がいい。見えない脅威とどう共存していくのか。

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