私が残したいものはこういう人もいたよと語ってくれる人だった。

どうも~千夏です。
今回は名前を残すことについて書きます。※前書き長いです。

私は無名人インタビューというインタビュー企画が大好きでよく読んでいます。
初めはただなんとなく好きで自由に解釈したり、教訓を得たり、感想を書いたりしていました。

気付けば読者室ラジオで記事について語るコンテンツをやるようになり二か月がたちました。

最新のラジオではフォロワーさんでもある方のインタビューに惹かれて何度も何度も読んだという話をしたのですが伝えきれていなかったので詳しく書いていこうと思います。


話題に上ったのは「名前を残すこと」でした。


前書き終わりです。無名人インタビューを知らない方にもお楽しみいただける内容ですが、書いた経緯を話したくて長くなっちゃいました。


私は名前を残したい、と思ったことはあまりありません。
でもこれって決して謙虚なわけではないと思うんです。
単に名前を残すことに自分が欲しいと思う価値がないだけなんです。

私は自分の名前が残ったら素敵だなと思います。
でもそれは自分に伝えたいことが強くあって、その手段として名前が使われれば良い。その程度の希望です。
何が言いたいのか難しくなってきたな。
私が残したいのって多分名前じゃないんですよね。
自分の願いをかなえるためには行動が必要で、行動をするのは自分を変えるため。
自分を変えるために行動が必要ですが、願いを叶えるためにも影響を与える必要が出てきます。
で、その影響を与えるための記号が自分の名前だったら良いなと思うのです。
ただ、これって名前がなくても考えが広がればいいとも思っています。
考えが広がるために名前が必要なのかは分かりませんが、最終目標ではないのでなくても影響が与えられるなら名前が残ってほしいとは思いません。
生きた証がほしいけどそれは名前が残んなくても多分得られるはず。もちろんこの影響力を与える、生きた証を残す、だって簡単ではないと思います。
だけど私は名前よりも存在を覚えていてくれる人が欲しい。
本名も「千夏」も残らなくて良いから何か私が書いたこと、話したこと、行動したことを誰かにつなげたいと強く思うのです。

自分が何を思うのか分からなければ誰かに影響は与えられない気がしています。そこで人と話し、考えを書き、読んだり聞いたりして自分を疑い続けています。明らかに行動が足りていないので考えるだけではダメだとラジオで話す中で気づきました。考えてばっかりじゃ意味なさすぎますよね、、。

読んだインタビューに話を戻します。名前を残したいと思えるのは少し羨ましく感じました。ラジオだとちょっとあきれているみたいに聞こえるので訂正しときますw
本当はそんな野望?を持てる人を尊敬していたのに、なんだかあきれているみたいにしか感想を言えなかったことがすごく心残りでちょっと後悔しました。
インタビューを受けている人の年齢は気にしないみたいなことを言っていましたが本当は同い年に限り結構気にします。
不思議と一つ下や上だとふーんとしか思わないけど、同い年だと気にしてしまう。競争心は持たない方なのでライバル視はしないんですが、比較はします。
何ででしょうかね。これは同い年を意識し続けてきた家庭環境の問題なのかもなー。

そういや「名前を残す」で思い出したけど「つきのふね」という森絵都さんの小説に似た台詞があったような。
☆同年12月25日追記
「つきのふね」にその台詞がありませんでした。
重松清さんの「ナイフ」かなと思ったけれどこちらも外れ。未だに謎です。
「永遠の出口」だった気がするけどまだ読めてなくて。

「最近の若い子は~」から始まる感じの台詞だったのですが思い出せないので久しぶりに読んでみます。

こんなこと日常では絶対に考えないと思うのでラジオやっててよかったかも。


こんなところで今回は終わりますが元ネタである無名人インタビューの記事を貼っておきますね。

インタビューを受けたこちらの方のリンク集

かけんのリンク集|note(ノート)


ちなみに私のはこれ。同い年を意識してしまう家庭環境の話もしています。