還る。

おばあちゃんが亡くなったよ。

はじめは理解できなかったが、すぐに理解できたようで襖で仕切られただけの部屋に駆け込み、近くに人がいるのも気にせず泣いて、泣きながら荷物を纏めはじめた。

そうしていると、実家から荷物が届いた。
母からはじめての仕送りだった。
それは、おばあちゃんが送ってくるものと似ていて、実際おばあちゃんから送られてきたものをそのまま詰めたものもあったらしい。

子供の日だったのもあり、おばあちゃんが作った団子が入っていた。5日にはお礼の電話をしたらしい。最後に息子である父と話せたのが唯一の救いだったんじゃなかろうか。でもきっと、連休は帰ってきて欲しかったのだろう。

7日の午後1時が推定の死亡時刻。
その頃、私は寒気に襲われ、頭痛と気分の悪さで寝込んでいた。穏やかな夢をみて、そのまま夕方までよく眠れた。

二軒しか人の住んでいない集落で、前の家のおっちゃんが片道1時間以上かかる真っ暗な山道を走らせて駅まで送ってくれた。
数年前に奥さんを白血病で亡くされていて、たくさん死と向き合ってきたような方だった。
親切にしてもらったことを誰かに恩返しをすることで世の中が平和になってくれたらいい。と言っていた。
こんなタイミングそうそうないから、おばあちゃんが考える時間をくれたんだからこれからのことをよく考えなさい。と言ってくれた。
不気味に浮き立っていた自動販売機の微糖の缶コーヒーを買って渡した。

去年のヒッチハイクの旅で、香川にいたタイミングでおじいちゃんが亡くなったので二度目の新幹線での帰省。遠くへ行くことも、新幹線に乗ることも、ましてや身内が亡くなることも滅多にないことで重なるのは意味があるのかと思ってしまう。

確かに死ぬ時ぐらいは、何か少しでも意味のある有意義な死に方をしたいと誰もが願うと思うし、無意識なタイミングで呼ばれるのは不思議な感覚に陥ってしまう。
死ぬ時は誰にもわからないし選ぶことが出来ないのだから、私が何処に行っていたって関係ないにしろ、呼び戻して助けてくれたとしか思えなかった。

おじいちゃんの一年忌で三月に帰った時に会ったのが最後で、帰る直前に一緒に春キャベツを収穫して、帰ってから美味しかったよって伝えたらまた来年も作ろうかね。と話したのが最後の会話でした。

それがきっかけで山口に行くことに決めました。
心配症のおばあちゃんのことだから心配かけたくなくて、おばあちゃんが作ったお米や味噌も親に送ってもらうように頼んでいて、休学の事も最後の電話で山口に行っていることを伝えたようでなんで山口なんかに...って驚いていたみたいでしたが、やっぱり少しは心配してたんじゃないかと思います。
仕送りは分けてもらったので、おばあちゃんと母からのお礼だったのだと思います。

最後の日記には、よく晴れた日、頑張って団子を作って孫に送ってあげたいです。と書かれていて、その日が雨だったら死なずに済んだのかな、とか思ってしまった。葬式の日には雨が降っていた。

倒れていた近くには、団子に使うための竹の皮が沢山積まれていました。
電話で、竹の皮がなくて袋に詰めたけど時間がかかって大変だった、と話していたらしく、来年使うための準備をしていたんだと思います。

最後のお別れでは、お父さんと、そのお父さんが、ありがとう。
と言っていて報われたと思います。

おじいちゃんは酷い認知症で、暴力や暴言が激しく施設に入院していました。おばあちゃんが亡くなったことも分かっていなかったと思います。

形見の腕時計を貰いました。何度時間を合わせても少しづつずれていく時計ですが、まだ動いています。

厳しくて、いつも口うるさく言われていたので、どこかで見ている気がして、声が聞こえて来そうな感じもして、しっかりしないとなって、背中をすっと伸ばしてしまいます。
私が悩んでいる時、離れていても傍にいると言ってくれました。
今でも信じられないし、いないのが当たり前になっていくのが寂しいけれど、いつも傍にいる感じがして寂しくないです。

本当に同じ血が混じっているのかと疑ってしまうくらい、強くて厳しくて優しい人でした。
少しでも近付けるよう見習いたいです。
一人息子の長女で、たくさん可愛がってもらいました。
80年間おつかれさまでした。
苦労した分、天国でゆっくり休んでください。本当にありがとう。