西洋近代と日本語人 第1期 その2
3. 暴力について ――人類学風の考察――
3.1. 「西洋近代と日本語人」という主題なのに、なぜ暴力の話が始まるのか。理由は、私が、現代の日本社会は近代という体制の大事な部分で失敗しており、その大事な部分とは暴力にかかわる体制だと思っているからです(西洋近代と日本語人(仮題)2.22)。現代の日本語人は、近代国家の暴力性と自分自身の関係をうまく把握できないでいる。その意味で、近代化に失敗している。
3.2. その一つの現れは、憲法第九条と自衛隊のあいだの矛盾に見てとられます。あちらを立てればこちらが立たないはずの二つが並び立って、どちらも廃棄できない。この矛盾は体制の根幹にかかわる。というのも、およそ近代国家は、警察力と軍事力を持たないのなら、設立する意味がない。というかむしろ、それらなしでは国家を設立したことにならない。それぐらい対内的・対外的な暴力装置は近代国家にとって本質的なものだからです。現代日本は、その本質の部分で矛盾を抱えている。
3.3. 例えば、十七世紀の哲学者ジョン・ロック(1632-1704)はこう言っています。
「国家(the Commonwealth)は、その社会の成員でない者からその社会の成員に対して加えられた侵害を罰する権力をもつ。これは、戦争と平和の権力である。」(ロック『統治二論』第二篇88節)*
国家は、当時しばしば「Commonwealth(共有されたよきもの)」と呼ばれました。よきものとして統治の体制は、一定範囲の人々が契約を通じて共有する。これが社会契約論の国家観であり、契約を結ぶ人々の集団がここでは社会と呼ばれています。この共有された体制、つまり国家は、その社会の成員が外から危害を加えられたとき、加害者を罰する力をもつ。これは、「その国家の外にいるすべての人物や共同体との交渉の権力」(同上146節)のこと、つまり外交交渉全般を執り行う能力のことです。この力は、戦争を始めたり平和を約定したりすることを含みます。国家が対外的に軍事力をもつことは、定義によって明かだった。
注*:訳文は、大槻春彦編『世界の名著 ロック ヒューム』所収の宮川透訳と、岩波文庫のジョン・ロック『完訳 統治二論』の加藤節訳を参考にしています。
3.4. 国家は、もちろん国内の治安を維持する権力を人々から預かっている。これは個人の生命、自由、財産の保全を明文化して、違反者を罰する権力です。
「国家(the Commonwealth)は、その社会の成員のあいだで犯されたさまざまな逸脱行為に対して、どのような罰が与えられるべきかを定める権力をもつ。これは立法の権力である。」(ロック前掲書、88節)
共有された良い体制は、その社会の成員相互のあいだで生命、自由、財産の侵害が生じたとき加害者を罰する力をもたねばならない。これは統治が存在する社会(政治社会political society)の定義といってもいい。
3.5. こうして対外的には軍事力、対内的には警察力を備えて、はじめて近代国家が成立する。これはもちろん、十七世紀だけロックだけの考え方ではなくて、例えば、マックス・ウェーバー(1864-1920)は次のように言っています。
「「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」。トロツキーは例のブレスト-リトウスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。もし手段としての暴力行使とまったく縁のない社会組織しか存在しないとしたら、それこそ「国家」の概念は消滅し、このような特殊な意味で「無政府状態」と呼んでよいような事態が出現していたに違いない。(マックス・ウェーバー『職業としての政治』脇圭平訳、岩波文庫、p.9)」
「国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。(同上)」
3.6. ところが、日本国の場合、憲法が戦争の放棄と戦力の不保持を謳っている。これは近代国家として普通ではないわけです。現代日本語人は、憲法と自衛隊のどちらも廃棄しない。しかし、論理的に両立させることができるわけでもない。近代国家の本質の一部をなす対外的な暴力の能力について、居心地のわるい自己矛盾の状態を続けている。近代国家の建設に本質的な部分で失敗していると言わざるを得ません。
3.7. そういう次第で、これから第九条と自衛隊をめぐる問題を検討するのかというと、それはやりません。理由は、もとより国際関係論や現代政治学は専門ではないので、安全保障や軍事史にかかわる諸問題をよく知らないからということもあります。が、本質的には、私たちが自己矛盾に追い込まれている原因は、憲法条文と自衛隊という表層にはない、と私がひそかに思っているからです。深層には、現代日本語人が、個人としての生き死にを、共同体の命運に結びつけることができないという思想的な問題がある。自分の生き死にと自分〝たち〟の生き死にを橋渡しする仕掛け――考え方と振る舞い方のひとつながりの体系――をもっていないということです。憲法の条文と自衛隊の存在の不整合は、私たちのそういう思想的なつまずきの露頭にすぎない。それは現代日本が近代化に失敗しているわかりやすい証拠ではあるけれど、そこだけを取り上げても、対症療法にしかならないでしょう。
3.8. もともと、私が、現代の日本語人は暴力と自分たちの関係をうまく捉えられないらしいと気づいたのは、憲法や自衛隊とはまったく関係ない方向からだった。2006年か2007年頃、美術家、村上隆の展覧会図録『スーパーフラット』(2000)と『リトルボーイ』(2005)を見る機会があった。同じころ、村上春樹の『海辺のカフカ』(2002)を読んだ。これに前後して、漫才師の松本人志の監督した映画『大日本人』(2006)をDVDで観た。この3人の4つの作品にほぼ同時に接して、これらはすべて
「私たち現代日本人は自信をもって〝正しい暴力〟を振るうことができない」
というメッセージを発していると直感した。かなりかけ離れた分野の、才能ある表現者が、制作の文脈を共有していない作品たちを通じて、共通のメッセージを発している。これはただごとではない。そう思ったわけです。このことは21世紀初頭の日本社会と日本語人のひとつの傾向を表現しているに違いない。(〝正しい暴力〟という表現に疑問を抱くむきもあるでしょうが、いずれ説明します。)
3.9. でも、これからこの4作品をすぐに論じるかというと、そうするのは少し無理があるようだ。後回しにしたい。というのも、『スーパーフラット』、『リトルボーイ』、『海辺のカフカ』、『大日本人』の4つが共通のメッセージを発しているという直感は、なんというか、悪い意味でいささか非凡すぎると思われないでもない。「なんじゃそりゃ?」と言われそうだ。この4つに暴力をめぐる共通のメッセージを読み取ってしまったのは、私の方にあらかじめ暴力という事象に関心があったからでしょう。4作品を分析するのに先立って、暴力というのは人間にとって独特の大事な問題なんだ、と私が考えるに至ったいきさつをまず語っておきます。
イケニエが殺されるとき
3.10. 1970年代の終り頃、作田啓一の「死との和解 ――戦犯刑歿者の遺文に現れた日本人の責任の論理――」(同『恥の文化再考』筑摩書房1967所収)という論文を読んだ。この論文で、作田は、死刑判決を受けたBC級戦犯の、刑死を納得するための理由づけの論理を、彼らの残した遺書や手紙から読みとることを試みている。そして、「贖罪死」、「いけにえ死」、「とむらい死」、「自然死」という4つの理由づけの類型を見出した。それぞれ、罪を贖うために死ぬ、日本国の身代わりのイケニエとして死ぬ、死んだ仲間をとむらうために後を追って死ぬ、避けられない自然の定めとして死ぬ、という理由づけとなっている。
3.11. このうち「いけにえ死」が気になった。戦争犯罪で訴追され死刑判決を受けた人物が、自分は国家の身代わりとしてイケニエに供されるのだと考えるのは、わかるようなわからないような、微妙なところがある。本来の責任主体は国家であり、自分はその身代わりなのだというのは一応わかる。だが、裁判過程に事実誤認のなさそうな事案でも、個人の責任はないと主張する例が見受けられる。これは、ある意味で行為遂行中に意識を失っていたと主張するのと同然の、理屈の通らない主張に感じられた。というわけで、ここからあれこれ考えて『自己犠牲とは何か』という本を書くことになるのだけれど、それには40年かかってしまった。その間の事情は本のあとがきに書いたのでひとまずおいて、そうやってあれこれ考えていく過程で、イケニエや犠牲にかんする人類学の文献を調べているとき、狩猟民のある奇妙な習俗に気がついた。人間における暴力の問題の本質が、その習俗に現れているように思われたのです。
3.12. 犠牲儀礼、ないし供犠とは、イケニエとして家畜を殺して神々に捧げる儀式一般をいう。そして、動物の家畜化以前の、より古い人類文化の層に、狩りで森の野生動物を殺すときの狩猟の儀礼がある。例えば、北ユーラシアから北アメリカ北部にかけての広大な地域には、熊を狩る人々が居住しています。これら種々の民族の狩猟儀礼には、次のような共通の特徴があるといわれます。
「忌詞、狩に勢揃いしたときの儀式、狩の成功と野獣の繁殖を促進するための熊踊りとパントマイム、熊に対して言い訳の演説をすること、森の中でやる熊の死体に対する儀式(たとえば、毛皮を剥ぎ、目玉を抜き、骨や性器や耳や鼻を保存することなど)、男根舞踏、熊の肉を儀礼的に煮て食べること、熊の頭蓋と肋骨を保存したり、儀礼的に葬ること、殺された熊が再生するという信仰、さらに熊が人間の身内だとか、人間の男や女が変容したものであるとか、あるいは森や山の主のような人格神がその身内であるという神話(大林太良『北方の民族と文化』山川出版社1991、p.209)」
列挙された特徴のうち、奇妙な習俗として気になったのは「熊に対して言い訳の演説をすること」でした。これと関連して「殺された熊が再生するという信仰、さらに熊が人間の身内だとか、人間の男や女が変容したものであるとか、あるいは森や山の主のような人格神がその身内であるという神話」も興味深いと感じた。
3.13. 「言い訳の演説」とは、狩人が動物に向かって「お前の方からやってきたんだ、だから私を怨むな」とか、「あなたの方が私に殺されることを望んでいる、私が望んだのではない」といった言葉を投げかけることを言う。E・ロット=ファルクの『シベリアの狩猟儀礼』(弘文堂1980[原著1953])にはこの種のさまざまな言い訳が報告されている(特にpp.141-150)。狩人がこんな見えすいた作り話をするのは、かれらが必ずしも動物を殺したいと積極的に思っているわけではないからです。
3.14. 狩猟は、谷泰の言葉を借りれば、「〈他者としての動物殺しを前提とした動物食資源の獲得〉」であり、「それによる自己の生存の確保」の活動ということになる(谷泰『神・人・家畜 ―牧畜文化と聖書世界―』平凡社1997、p.134)。狩りは突き詰めれば生き物の命を奪うことだから、狩人の側に「後ろめたさを伴わなかったわけではない(同上)」のです。そして、「シベリアの北方狩猟民が、獲物をしとめたときに、儀礼的ではあっても、それが自分の意図によってなされたものではないことを示す、遁辞を発するという事実は、そのこと〔狩人の後ろめたさ―引用者補〕の証左でもある(同上)」と谷は説明する。熊に向かってお前の方が望んだのだというのは、もちろん作り話だけれど、そう信じることにすれば、狩人の後ろめたさは軽くなる。獲物を殺すときの狩人の言い訳の演説は、殺すことにまつわる罪責感を打ち消すための心理的な操作の一種だということです。
3.15. 熊の再生や、熊は人間の身内である、熊は森の主の一族である、といった神話的な語りもこの後ろめたさを打ち消す方策にかかわっている。その意味で興味深い。
3.16. まず、熊が人間の身内であるというのは、動物を殺すのはよくないことだという禁忌の感覚のもうひとつの表現でしょう。狩猟民の生活環境では、人間は動物に依存して生き延びており、動物がいなくなれば人間は生きていかれない。それゆえ動物は同じ世界を生きる仲間であり、狩りは仲間を殺して利用するという意味をもつ(ロット=ファルク前掲書、pp.13-15)。仲間を殺すことには、ためらいも後ろめたさもあって当然です。おそらく、動物は仲間だという認識と、動物殺しは後ろめたいという自覚は等値の関係にある。仲間だから殺すのは後ろめたいのであり、殺すのが後ろめたいから相手は仲間なのです。
3.17. 熊が再生するとか、熊が森の主の一族であるといった語りは、言い訳の演説とはまた別の、動物殺しの後ろめたさを軽減する仕掛けになっている。アイヌの熊送り儀礼(イヨマンテ)を例にとりましょう。イヨマンテは、秋に捕らえた子熊を村に連れ帰って大事に育て、年が明けてからその子熊を儀式の中で礼を尽くして殺し、その魂を山に送り返す儀式です。子熊の魂は、山の神(カムイ)である親熊に、自分がアイヌの村でどんなによくしてもらったか伝える。それを聞くと、カムイたちは熊の姿になって再びアイヌの里を訪れる。そしてアイヌの狩人は熊を殺してカムイの魂を肉体から解放してやり、魂をカムイの里へと送り返す。この魂の循環は、とりもなおさず、熊を殺して肉や毛皮を利用することが許される手続きを示しています。(Kindaichi, K. The Concepts behind the Ainu Bear Festival. Southwestern Journal of Anthropology, 1949, Volume 5, Number 4, pp.345-350.;Kitagawa, J. Ainu Bear Festival (IYOMANTE). History of Religion, 1961, Volume 1, Number 1, pp.95-151.)
3.18. 以上から、次のようなことが浮かび上がります。第一に、狩人には動物を殺すのはよくないという心理がある。第二に、それゆえ狩人は動物を殺すとき、後ろめたさを感じないですむやり方を工夫する。第三に、その工夫には、(ア)動物の方が殺されるのを望んでいるのだという作り話や、(イ)動物を殺すのは神々と人間のかかわりのなかで許容され推奨される行為であるとする物語などがある。
3.19. こうした習俗は、北ユーラシアの熊猟師に限らず、東南アジアや中央アメリカ、アフリカなどのさまざまな狩猟民の民族誌からも、よく似たものが見いだされます。すなわち、各種の動物を殺すことへの制約や禁止があり、これに対して動物の側の自己犠牲や、森の主、先祖の霊、夢のお告げなどによって狩猟が許されるという仕組みがある(田村均『自己犠牲とは何か』pp.80-89)。
3.20. これらは、農耕以前の太古の心性と生活形式に根ざしている。狩りの獲物は無理無体に殺されるのではなく、神々の定めの下でみずからの死に同意を与えており、狩人はその定めの実現の一助として手を貸すにすぎない。しきたりに沿って行なわれるかぎり、動物の死は人間に責めを負わせるものではない。こういった神話的な語りは、生くべきものと死すべきものを分かち、生と死の秩序を与える人類最古の形而上学の、少なくとも一部を成すもののように思われます。
3.21. 先に、人間の暴力の本質的な要素がこうした習俗に見出されると述べました。簡単にいうと、ヒトは基本的に暴力を振るいたくない。だから、暴力を行使せざるを得ないときには、自分のなかの気の進まなさを打ち消さないといけない。そのために、相手が望んでいるとか、より上位の神々や精霊の力によって許されているといった物語を作りだす。そして、その物語の中で暴力を行使する。暴力にかかわる人間的な制度は、本質的にこういうもののようです。
3.22. 生業が狩猟から農耕牧畜に変わり、家畜の供犠に形式が変化しても、イケニエの動物を死なせることは気の進まないことであり続けた。現在でも、なにかを「犠牲にする」という言い回しが気の進まない心理状態を含意するのは、その痕跡と思われます。殺す力の行使は、ある種の物語のなかで、後ろめたさを押し殺して遂行される儀式となった。暴力は、人間において、神々の命令や許可の下で、後ろめたさや気の進まなさを抑え込み、厳密な手順に則ってのみ行使できるものらしい。こんなことが言えそうです。
3.23. とはいうものの、狩りの習俗からこんな一般化を一挙に行うのは、話が飛びすぎという感じもする。そもそも普通は、狩りは典型的な暴力の一種とは見なされていない。典型的な暴力はケンカや戦争でしょう。また、狩りの心理は、近代国家の警察や軍隊の活動とは関係が薄いように見えます。狩りと暴力にかかわる人間の特異性を、もうすこし、今度は大型類人猿の狩りや暴力と対照しながら考えてみます。
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