天皇って何だろ
このノート…書いたものの公開するのどうしようかとちょっと悩んだけど「天皇に関してタブー」みたいな空気も嫌だったので公開することにしました。そもそもノート自体はんぶん自己満なのでそのくらいの気持ちで…読むにはメチャ長いですけど。
先日即位の儀があった。
喜ばしいと日本全体が寿ぐ雰囲気になり、日本古来の文化とか天皇家のルーツとか、虹が出たよ吉兆だとか、各国からすごい誰それが列席しただとか、参加者のお召し物がどうだとか、そういったことをずっとやっていたんだろう。
見てないけどツイッターとかテレビのチラ見だけでもう十分伝わりました。
今回の儀で…いや今回だけではなく最近の皇室への日本人の反応を見ていて年々つのっていく率直な疑問がある。
「一体みんなは天皇をどう認識しているのか?」
人間ではなく神様?
人間だけど神様?
人間だけどなんかのグレードが上の人?
日本を高貴な国に底上げしてくれるロイヤル?
私の認識は
歴史上いろんな権力のシンボルとして利用され続けてきたが自分たちと全く同じ人間
です。
天皇は一おじさんだし、上皇は一おじいさん。
だって人間宣言したしな終戦時に。
まあ宣言しようがしまいが、その前からずっと古代から現代まで変わらず人間だったと思うけど。
最高法規である憲法には、天皇についてこうある。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく(第一章、第一条)」
それすなはち、国の成り立ちとしては国民主権(=国民)があってその下に象徴としての天皇がいるということになる。
わざわざ天皇家のことが憲法に明記してある点においては特殊な人達ではあるけど、憲法自体が第二次大戦までの反省を踏まえて作られたものであることから、明記せざるをえないんだと思う。
けれどやっぱりどこからどう見ても人間だ。
この点、今日び「人間じゃない」「現人神だ」とマジで認識してる人は少ないんじゃないかと思う。
だから、私の目にはこのセレモニー大騒ぎがすごく奇異に映ってしまう。
同じ人間が同じ人間に万歳三唱したり、普段思いもしないアマテラスを急にありがたがったり、セレモニーに非常識な額のお金(160億円余)をかけたり、全く理解できない。
やるなとは言わない(やらなくていいと思うけど)。でも限度がある。
この宗教的儀式に160億円もかけるのはどう考えても非常識だし(これでも縮小したそーな)、このお金は他宗教を信じる人からも徴収した税金なわけで…。
金額………体育館で雑魚寝させられてる被災地より宗教就任セレモニーですか。
一応国事行為と位置づけられているみたいだけど、アマテラスに祈りを捧げたり何じゃかんじゃ結局神道という立派な宗教儀式ですよね。
皇族である秋篠宮が、大嘗祭について「公費で行うのは政教分離に反している」と異議を唱えられたのはもっともだと思う。
当の皇族の方がよっぽど冷静だな。
私がこんなにも違和感を感じるのは、この政教分離(政治と宗教は切り離さなければならない)の面において「まったく切り離されてねぇ」という点だ。
つい74年前、日本はとても悲惨な戦争を経験した。兵士は戦闘より餓えで死に、特攻で若い命は使い捨てられ、アジア各地で悲劇を引き起こし、本土は空襲でズタボロ、人類初の原子爆弾で2都市は地獄と化し、沖縄は民間人を巻き込んだ戦闘が行われ海は血で染まった。
この戦争は軍の暴走のみで起こったのではない。
天皇を中心とする国家システムが、国民を盲目的な「大日本帝国第一主義」へと効率的に誘導する役割を果たしたことは間違いない。
天皇を中心とする、この本来のアミニズム的な神道とも少し違った「新宗教」は、たちまち強烈な盲信を産み、疑うことを許さない無茶な戦争へと国民を駆り立て、他国に信仰を強制した。
もはやカルトだ。
カルトが人の思考力を奪い、視野を狭くし、独善的になるのはみんな何となく理解できると思う。
第二次大戦までのプロセスにこの「天皇」というシステムは欠かせなかった。
もちろん天皇家が意図してやったことではなく、権力が天皇家を利用した。
もっともこれは近代に始まったことではないけども、それまで「正統性」を得るための「道具」(敢えてこう書くけど)だったものが、江戸時代までは緩いものでしかなかった「日本、日本人」という認識をガッチリ固めるために転用されたのが明治以降の「新設・天皇制及び神道」だと思う。
すなはち、ナショナリズム(≒自国第一主義)と明治以降の天皇制はとても近しい関係、親和性を持っていると言える。
そして天皇は望む望まないに関わらず、戦後まで日本のトップだった。私個人としてはどうあがいても天皇には戦争責任があると思う。
どんな組織も上の者が責任を追求されるのは変わらない原則じゃない?
被爆地出身の者として、その思いは割と強い。天皇家には複雑な思いを抱えている。
ちなみに昭和天皇は原爆投下について「仕方のない犠牲だった」と言った。あの言葉、思い出すたびザワる。
上皇天皇は当事者ではないし、断罪しろとまでは言わないけど、責任があることを忘れないのは大事だと思っている。
それは天皇を責める意味でなく、むしろ国民自身も「戦中天皇制システム」に組み込まれ、積極的に戦争に参加した事を繰り返さないための戒めでもある。
断っておくと、上皇と新天皇のことは個人としては好感を持っている。
それは彼らが皇族だからではなく、彼ら自身の行動や発言から垣間見える一人の人間としての知性や理性や人間性からだ。
彼らの行動は戦争における天皇家としての責任を強く意識してのことだと分かるし、自身の立場についても戦後から長年考え抜いて来たんだと感じる。
問題は国民の方だ。
戦前戦中のそうした「日本一番戦争ドンと来いシステム」の危うさを忘れ、天皇とは何かついてあまり考えることなく寿ぐムード、お祭りムードを壊すなと言う風潮のみが膨張しているように感じて恐怖すらある。
「ちょっとやりすぎでは」すら言いにくい。(言ってるけど)
みんな現実の辛さや停滞する経済や日本の将来への不安から目を逸らしたいのかもしれない。
だから分かりやすい「日本ブランド」に飛びつくのかもしれない。
ロイヤルブランドがある国に所属していれば、それだけで安心できる。「オンリーワンな特別感」があるから。
だけど天皇家の人々も人間であると思ったとき、そのブランドに人間性は加味されているんだろうか。
真子さんと小室さんは本人の意思は無視され、結婚を許されなかった。
前天皇の出した「お言葉」の内容を、一体どれだけの人が考えただろうか。高齢にも関わらず「退職」ですら思うようにかなわない。
女性は相変わらず天皇として認められない。
私達がブランドとしての天皇家に依存する限り、人間としての彼らの人権は永遠に保障されないのではないか。
江戸以前、地方や農村に行けば「天皇?誰それ?」なレベルだったという。
現在の「天皇」という感覚は、ごく近代に意図的に創られた部分が大きい。各種儀式もそうだ。
「なくても大丈夫」な時代があったのだ。
そろそろ皇室依存から卒業して、独り立ちしてもいいのではないだろうか。