にじさんじを軸とした「物語萌え」についての話

僕の顔の好みって結構わかりやすくて、パーツがそんなに大きくなくて、色が白くて、黒目がちであればみんな可愛く見えてくるところがあります。もっと言えば髪の毛がうるさくなければ全員可愛いまである。それは逆説的に、誰も可愛くなくて、可愛いかなんてどうでもいいとも言えます。
これまでハマってきたアイドルに目を向けてみると確かにそういった特徴を見事に備えているので、僕が好きだろうアイドルを予想するのは容易いです。
鈴木愛理より嗣永桃子、和田彩花より前田憂佳、白石麻衣より生駒里奈、金澤朋子より宮本佳林……。

けれども今申し上げたように、女の子なんてだいたい誰もが可愛いし、誰も可愛くなんてない。そもそも可愛いなんて言葉自体が相手を少し下に見ているような、下衆なイメージがあるので実はあまり好きではありません。つまり顔を含む容姿は、自分に合わない人を除いては概ねどうでも良くて、そうしたら自分はどんな基準で、あらゆるコンテンツに入れ込んできたのか分からなくなることがありました。
これは男女を問わず、人を好きになる理由付けができないということでもあり、なかなかに難儀なことでありました。

最近、というかここ1年くらい、家に帰るとYouTubeを開いて、Vtuberの配信やそのアーカイブを観るようになりました。それほど面白くもない、冗長な生雑談配信はそれこそニコニコ生放送の生主のそれと大差がなく、ゲーム配信も実況動画と変わりがありません。ただそれを、匿名の人間ではなくて、アニメーションのキャラクターがやっている、というのが「差異」としてあるのみです。基本的、表面的には。
僕はゲーム実況動画は見てきたけれど、生主の生放送には免疫がなくて、なにがそんなに自分に響いているのか、イマイチ掴みきれないことがありました。
それでも確実に自分は彼らの何かを好きで、それはもちろんアニメーションの「ガワ」一点では語れないものであることはわかっていました。
少しずつ考え続けているうちに、仮説として立てられたのが「物語萌え」という性癖です。
僕は、彼らがそれぞれに持っている物語と、彼らがそれぞれに繋がっていくことで産み出される物語に興味を持ち、応援しようという気持ちになるのではないか。だから端的にアイドルは、とかく不遇でなければならない。

アイドルとVtuberを行ったり来たりして文章が下手ですが、まず前者について整理します。
僕が好きなのは「売れる可能性を秘めているが今は不遇で売れてねえ顔の薄い女」です。前述の数人がパッと浮かび上がったでしょう(この点で言うと生駒里奈はもう僕の中では「飛び立った」)。業界内の人気は高いけれど本人は自信過小でそれだから頑張りすぎて壊れるような、でもいつかそれは報われるだろうと期待させてくれる存在が堪らなく好きです。ここで大事なのは「本人が頑張っていること」と「その頑張りはいつか報われるだろうと予測させてくれること」です。これはアイドルがidol(偶像)である前提で、アイドル像として「そう」であれば実状はあまり関係がありません。さらに加えて、「不遇かどうか」も、そのアイドルをやっている生身の人間自身がその実どうであるかは関係ない。すなわち、「そういうアイドル」として確立していることが重要です。そもそも芸能人、ましてやアイドルに対して「この子は実はこうなんじゃないか!?」「実はこんなやつだ!!」などと憶測を立てること自体に価値がないと思っていて、相手側から提示されることを我々は「一度は」全て受容すべきだと考えています(アイドルが恋愛を禁止されるのは、恋愛するのがアイドルではなく、アイドルをやっている人間であり、それはアイドルとして見せるべき要素ではないと雇い主が決めたからです)。ですから、「そうだ」と彼女たちが表現出来ているなら、そうなのだと思って理解を進めています。
そうして売れていない彼女たちの頑張りが少しずつ報われて、天下は取れなくとも正当に評価されるというプロセスに立ち会えた時、同時に自らも肯定されたかのように感じ歓びに溢れるのです。

Vtuberについても大筋は変わりません。事務所にもよりますが概ねVtuberは、アイドルよりもさらに「そうであることの提示」が強固かつ単純化されている存在です。まず彼ら彼女らは高校生でもカフェ店員でもピエロでも悪魔でもありませんが、しかしそうであると提示されます。そしてその提示を、ガワと声が後押しします。ほとんど、小説の書き出しやアニメの第1話と変わりません。実際にはもちろんそうではないけれど、そうだということになる、そのうえで世界が構築されることに、一切の疑いの余地はありません。それが本当かどうかではなく、そうだ、ということを前提にすることからスタートするからです。江戸川コナンはいつまで経っても小学一年生だし、月ノ美兎はいつまで経っても高校二年生です。

そこまでなんとか飲み下してから始まるのが、僕たちの眼前で繰り広げられるライブ的な物語の展開です。安価スレに通ずる要素もあります。物語を「一緒に」作っていく、という感覚は、アイドルのそれよりも自由度が高く、見通しの立たない存在だからこそ際立ちます。いったいなにによって彼らが評価される(乱暴に言えば«バズる»)のか、誰も分からない。自分たちが押し上げるのだという勘違いのもと、応援してくれるみなさんのおかげですという言葉を過大評価しながら日々の物語作成に参加します。

偏見かもしれませんが、「物語への参加」というのは陰鬱で自らに存在価値を見いだせない人間ほど魅力を感じるものではないかと思っています。自らの物語に失望しているからこそ、本来自らの物語に起こるはずの心の動きが「踊るスペースがない」。その代わりとして求めたものがアイドルの物語だし、Vtuberの物語なのでしょう。少なくとも僕にとってはそうです。アイドルとオタクとの関係性は往々にして一方向的で、Vtuberと視聴者との関係性はそれを超えうる可能性があります(勿論アイドル的な一方向性エンタテインメントとして確立している方々も多い)。

双方向性のある物語って、一見生身の人間と対峙して創り上げていくものとそれほど変わりがないように思えるかもしれません。しかし僕にとってバーチャルであるということは何よりも「視聴者自身の領域には踏み込んでこない」という安全性が担保されている点において決定的な差異があります。物語の展開に参加はできるけれど、その物語に、自らの絶望を組み入れたくはないという我儘が通る場所だということです。僕は彼らに救われたいなどとは微塵も思っていなくて、ただ自らが絶対的に不可侵な立場で、彼らの物語に参加し、追随したい。そういう不恰好な欲望が罷り通ってくれるから嬉しいのです。

先程「事務所にもよりますが」と述べましたが、例えばアイドル部はRP(ロールプレイング)を重視した活動をしています。彼女たちは「そうである」ことを強烈に提示し、自らが「そうであり続ける」ことで説得力を増していく。だから視聴者は見続ければ見続けるほど彼女たちを信頼し尊敬し、そして安心して応援し続けることが出来ます。RP出来ている限りは。これはまさしくアイドル、であり、Vtuberも視聴者も規律を守っているからこそ成立する関係性だと思います。僕のVtuberの入口は「電脳少女シロ」で、だからアイドル部には今でも特別な思い入れがあります。
最初にVtuberがネット上で存在感を大きくした時期、彼ら彼女らのスタンダードはこういった形でした。アニメの登場人物のようにキャラクターを遵守し、目標を設定し、そして視聴者と一緒になって成長していく、週刊少年ジャンプ的で公明正大な物語です。
だから僕にはエネルギーが足りなかった。エネルギーというのは、僕がそれらについていくエネルギーです。このような形の存在に参加するには、それ自体に没入する必要がある。自らの領域に踏み込まれたくはないが、自らをひと時も捨てることすらできない僕にとって、それは困難なことでした。これは他のエンタメに触れる時も全く同様の心の動きがあって、「現実とは関係ないところであって欲しいけれど、そのために現実を忘れることは出来ない」。
その頃に現れたのが「にじさんじ」プロジェクトです。これまで3Dが当たり前、RPが当たり前だったVtuber業界にとってあまりに破天荒かつ見切り発車な存在が突如として現れました。一枚絵がゆらゆら揺れるだけ、そして彼女たちは初回からHPに記載された設定をもみくちゃにして、どんどん“中身”を出していく。これまでタブーとされてきたようなことを、むしろ自ら楽しんで行っているようにすら思えました。
しかしこれはバーチャルの世界観の崩壊ではなく、「Vtuberをやっている素人」たちの物語の始まりだったのです。

人間は誰しもある他者と対峙する時、「その人そのもの」と「その人の社会的人格」との両方に向き合うはずです。この配分は人によって異なり、社会の中で他者から与えられた意味付けを守り、正にその通りに生きている人もいれば、自らのそのものに向き合い続け苦しみながらも自らに正直に生きようとしている人もいます。そうやって塩梅の難しいことをし続けているのが人間であって、向き合った他者としての僕たちも、事実そうして自分にとって最も「心地のいい」バランスを模索しながら生きているはずです。
にじさんじもその、ひとつの「バランス」だということです。社会的に求められる「ガワ」とその「ヒト自身」とのバランスを、個々で考え、表現する。要はそのどちらもと、そのバランス自体が魅力的であれば、人間と同じように、魅かれる存在になりうる。そしてそのそれぞれに、物語が紡がれていく。生きているだけで、活動するだけで、その人自身にも、社会的なその人にも、物語の展開は訪れる。そうして同時にふたつの物語が、絡まり合いながら進んでいき、大きくなっていくのです。

「にじさんじは青春のやり直しだ」というコメントを見かけたことがあります。僕にとってそれはかなり正確な感覚です。おそらくこれまでの人生がそれほど順風満帆ではなかった人間たちが、新しい社会的人格を自ら掴み取り、それに翻弄されながらも必死になって成長しようとする。「ガワ」と「中身」の乖離に苦しむ、なんて、人間の青春そのものではありませんか?自分とはなにか、自分に対する自己と、他者に対する自分との連結点でちぐはぐになって、自らが納得できる形をつくりあげる。それこそ正に青春であり、しかもみんなひとりでは無い。男女の壁をぶち破って、上下関係の壁をぶち破って、でも節度は守りつつ、部活的に好きなことをしながら、でも「箱」としての未来は共有している。それはさながら理想的な「学校」で、そこに、これまで苦しんできたであろう「中身」が参画する。
そして視聴者も、ナマ感のある、決して理想的ではない「ヒト自身」を見せつけられながら、しかしそれは物語の範疇であることを自覚しています。「Vtuberをやっている」素人の物語、ではなくて、「Vtuberをやっている素人」の物語であることを分かっています。いくら生放送の配信を視聴しても、いくらリアルイベントに参加しても、僕たちが出会うのは「Vtuber」であり「Vtuberをやっている素人」です。その中身の人間そのものの私生活に踏み込んで出会っている訳ではありません。僕たちはどんなバランスであっても彼ら彼女らのRPの参加者に過ぎず、僕らの私生活とは交わらない。まさに仮想的空間で行われる「やり直されてゆく青春」を、没入せずにしかし参加するという絶妙な距離感で味わい、自らの持つ絶望を少しだけ癒していくのです。

先日行われたにじさんじの武道館ライブを、僕は自宅からネットチケットで入場して参加しました。これまで積み重ねてきたみんなの物語の、ひとつの集大成としての現場だと思います。ひとりひとりが歌う曲はそれぞれに「そこで歌う理由」があり、僕らは生で目撃しながら、過去を振り返り続けました。作られた尊さではなく、僕たちが見出した尊さが、会場に溢れていました。ある意味で「第1章の完結」とも感じました。しかし物語はこれからも続いていく。
この日のアンコールで歌われたオリジナルソング「Virtual to Live」は「どうしようもなく今を生きてる」と歌っています。「この声が届く未来が幸福だと言えるようにただ謳おう」と。まだ僕たちは、彼ら彼女らを含めた僕たちはどうしようもなくて、くだらなくて、ただもがいてもがいて大きな声を出している。日々を笑ってはいるけれど、確かに苦しんでいます。それでも青春の毎日はこれからも進んでいくのです。そして彼ら彼女らもどんどんと進んでいくのでしょう。その時、僕はどうだろうか、「参加者としての自分」ではなくて、「僕自身」は。

僕はバーチャルに参加する時、「Vtuber」と「参加者としての自分」とを向かい合わせに置いて、「Vtuber」と「Vtuberをやっている本人の私生活」との距離と同じくらいの距離を「参加者としての自分」と「現実世界の自分」の間に設けているような格好になっています。そこまでは到底見ていられないし見たくもないというような感情で、僕自身も「視聴者のガワ」を被っているように感じます。それほどにまだ僕は「僕自身の物語に萌えられない」。社会的人格と、自らのエゴを対峙させて塩梅を掴むような、人間としての営為を行う意欲が湧いてきていないのが現状です。
そしてふと気づいてしまうのです、僕は現実世界で他者と向き合う時にすら、「その人と向き合う時の自分のガワ」を被って、それと「私生活の自分」とは、Vtuberと向かい合う時と全く同じだけの距離を置いていることに。そして同時に、他者に対しても「僕と向き合っている時の他者」のガワを被せて、本当の私生活には興味を示さないようにしている。アイドルでもVtuberでもこれだけ「関係性厨」的な自分が、自らと他者とのナマの関係性にはとんと興味を示せないのはひどく滑稽なことです。「他者と向き合っている自分」と「他者と向き合っている自分と向き合っている他者」を両方、自ら虚構的に設定して、その中で紡がれる物語に慰められているような生活が、もう何年も続いています。

“アイドルがidol(偶像)である前提で、アイドル像として「そう」であれば実状はあまり関係がありません。さらに加えて、「不遇かどうか」も、そのアイドルをやっている生身の人間自身がその実どうであるかは関係ない。すなわち、「そういうアイドル」として確立していることが重要です。そもそも芸能人、ましてやアイドルに対して「この子は実はこうなんじゃないか!?」「実はこんなやつだ!!」などと憶測を立てること自体に価値がないと思っていて、相手側から提示されることを我々は「一度は」全て受容すべきだと考えています。”

前述したこの感覚を、僕は現実世界で、人間対しても同じように感じている。僕は相手側から提示されることを全て受容するので、本当はそうでは無いのではないかなどと憶測を立てるのが嫌いだし興味がありません。しかしその営為なしに、他者の真実に近づく術もありません。そして「しかしそれでいい」と諦めているのが僕だ、ということになります。僕が感じられる、僕が他者から提示されるもののみで「僕と向き合う他者」を構築して、「その他者と向き合う僕」を構築して、それ同士を戦わせる。これほどに空虚な構造を、バーチャル以上に虚構的でしかも究極の自己愛と自己防衛に塗れた自己中心的な構造を、もう何年も、いつからやっているのか自覚できないほどに染み付いた形で「やっている」のです。

そしてそのうち、「僕と向き合う僕」というガワを作り始めるのでしょう。「僕と向き合う僕」は「僕に向き合われた僕」と物語を紡ぎ始めるのでしょう。そこに「中身としての僕」はいません。でももうそんなにして、自己と向き合い苦しむ青春みたいなことを、「本当にはやらなくてもいいんじゃないか」と思い始めていることがとても恐ろしい。そうしなくても生きていけるし、死んでいけると思い始めている。そのうち「幸福な僕」が宗教なしに作られて、そのまま死んでいくのでしょうか。そんなに世界は甘くないと思う。このまま文字通り体裁を繕っていても、そのうち訪れるのです。強烈な孤独が。

ここまで語り尽くすと気づいてくるわけですが、なぜ僕が「不遇だがいつかは報われる存在」(と設定されているもの)を好むのか、というと、正しく「他者と向き合う僕自身がそうでなければならないだろう」と考えているからだと思います。そしてその根本には、「人間は不幸でなければならないが、その中でなんとか生き延びねばならない」という価値観がある。人間は存在すること自体が否定されるべきで本当は滅されて欲しいけれど、しかし個人としては子孫を残すべく奮闘するべきだという、刷り込みのような思いです。そしてこれは、父親の家の教えと母親の教えとの鬩ぎ合いに他なりません。
人間は総て、不幸でなければならない、不幸の中でもがき苦しんで、ひとつの小さな幸福を得なければならない。この呪いが自己をまず侵食し、それは他者との交わりにも及んでいるというのが現状でしょう。これまで2本の文章を書いてきて、成長だの変革だの述べてはいるけれど、それは勿論、もともとの不幸や不遇な運命の元にこそ成り立つべきものであるということを前提に語っています。だから他者に対しても罪深き人間像を押し当て、それがしっくりくるような形で「idol」を造り上げられるものに入れ込んでいく。アイドルにしても、Vtuberにしても、現実世界で出会う人間にしても、同じことです。

この呪いが解けることはありません。この呪いこそがひとつの「物語」であり、虚構であり、僕の人生が既に物語の中のものになっているからです。好きも嫌いも、この上に立ち起こっていて、呪いがかかる前の「中身」を、誰も知らない。今は彼がいることは分かるけれど、前述のように、そのうち意識の中からいなくなるでしょう。そうして完全に自己を喪った骸は、自らの思うままに生きていると思いながら、他者にガワを被せて、自らに何重にもガワを被せて、御託を並べて気持ちよくなって、誰にも救いを求めず、誰からも救われず、呪いに食い殺されて、笑いながら孤独の中で死んでいくのです。

そうでなくなることがあるとすれば、この先の何かしらの体験の中で、「ガワを被っていない他者を知りたくなる」出来事があるか、「知りたくもないのに見せつけてくる他者」が現れるか、その反対に「ガワを被っていない、自らもわからない自分自身を見せたくなる他者」が現れるか。その時この文章の展開上では、呪いに縛られていない、一体なんなのか分からない「自分自身」がやおら立ち上り、僕の感覚は完全に混濁状態となることでしょう。しかしあまりにも僕の人生とはかけ離れすぎていて、そこについてはよく分かりません。それを望んでいる本人が居るのかどうかも分かりません。ですのでもう暫くは皆にバーチャル的な絵を被せて、自分にも被せて、それ同士で会話してもらって、そこここに起こる「物語」に一喜一憂して人間ぶることにします。そしてアイドルとVtuberとは、もっと単純で簡単で簡潔な形で、「物語萌え」を摂取していきます。そうして自分を意識的に見喪って、自分を慰めて生きていくのです。


書いている途中で宮本佳林さんが卒業を発表したので、随分悲観的な仕上がりになってしまいました。彼女の「物語」がとても「萌える」ものだったもので……。ソロ活動という新たな展開を、強引に楽しみに思うしかありませんので、その自分を早く構築したいところです。

ちなみにこれを書いている僕も、「Twitter上(note上)で自己分析をする僕」として設定されたものです。

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