映世

平沢進のヴァーチュアル・ラビットを聴いて、無機質な高揚に煽られることで、やっと正気に戻ったような感覚だ。ずっと「写真で一言」を求められ続け、自分の中で納得がいかず、歯痒さだけがいつまでも取れなかった。しかしこれは幸せなことなのだ。こういう感情こそドアノーに切り取って遺していただきたい。あまりにも愉快に、現実よりも幾分かご都合主義的に。

彼の写真家としての技術だとか才能は、それはもうまざまざと見せつけられた。何必館の館長が語るように、1枚1枚に映る(写るというよりも映っている)景色は彼がその瞬間、幸せだとか喜びだとかを感じ得た刹那に瞬いて、それで以て記録したような瑞々しさを湛えていた。それでいてあまりにも整然としていて、嫌味な生々しさを排除している。彼の写真には確かな現実感と、不確かな非現実感が同居して、観る者の心にじんわりとユーモアが拡がらせた。

それはたしかに事実で、それぞれの作品を観る度に少しずつ心が温まるような慰むような気持ちにはなる。けれどもそう思うこと自体をどう思うかは、鑑賞者によってかなり分かれていくのだろう。

僕は、綺麗な写真だ、幸せが切り取られているようで美しい、それを観て私も同じような愉しい気持ちになる、とはなれなかった。これは決して悪い意味ではなく、ただ「自分はそういう受け取り方をするのだ」と後から自覚させられるのだった。

少年の心を持ち続けたドアノーが、そうであり続けられたのは、写真を撮り続けたからだ。つまり、自分が瞬間的に感じた、幸福感をはじめとした生の肯定を、意識的に記録し続けたからである。そうして幸福を追い求める時間はある種、現世(うつしよ)から離れて映世(うつしよ)に浸っているようにも感じた。だから彼の撮る風景は確かに現実なのだけれど、どこか非現実的で理想化されすぎている。
しかし彼は、そうして理想化した広告的な写真を撮ることを生業としても、現実世界を拒絶しなかった。彼はそこここに形成できる理想的な幸福が、幻想ではなく、この現世のなかに確かに存在したものとして認識できた。それは、それほどに幸福がパリの街に転がっていたからかもしれないし、もしくはドアノー自身が、写真の中に記録された幸福を意識的に過大評価していたからかもしれない。写真に切り取られていないあらゆる苦しみを凌駕するほどの力を、日々の幸福は持っていると。

現代、日々称賛される写真を観ても、極端に虚構的で煌びやかか、或いは極端に悲観的で鬱屈としているか、どちらかのように感じる。それがどちらも「ノンフィクション的な物語」でしかないのは、もうこの世からドアノーが切り取ったような生の幸福感が枯渇してしまったか、若しくは見つけられる目を誰も持たなくなってしまったか、そのいずれかだ。
どちらにせよそうなってしまったのは、現代の科学的な技術の進歩により、幸福の上限が発散してしまったことが最も大きな要因だと思う。これまで幸福に思えたあらゆる事が、それよりも幸福なことの登場によって、その座を奪われたということである。
今日、今では「幸福」と呼ぶにはあまりにささやかになってしまったものを見せつけられて、かつてはこれが現実的な幸せだったのだ、と思うことをノスタルジーだとは表現出来なかった。僕の心に生まれたのは単なる喪失感であった。
彼の写真に捕らえられた瞬間が纏う時間はきっと今よりもゆっくりと流れていて、それをゆっくりとは思わずに彼らはせかせかと幸福を感じている。そのことをただただ羨ましく思い、既に僕たちが喪ってしまった現実なのだろうと、単純に哀しくなった。きっと今でもその幸福はこの世にはあるのだけれど、僕らはもう二度と、彼らと同じ気持ちでそれを幸福だとは感じることが出来ない。今この世にあるのはより高度で、より良くて、しかしより困難な幸福であって、今、当時と同じことを仮に見出し、確かに同じように幸福だと認めたとしても、それは相対的にどうしても矮小化されてしまう。
その辺に落ちていた幸福が、生を肯定できるほどの力を持っていた時代に、僕らはもう戻ることは出来ない。そういう意味でも、日常に自らを肯定する世界を見出すことのできたドアノーを羨望すると同時に、その価値観を共有していた周りの人間を強く羨望した。

そしておそらく、それこそが誤っているのだろう。幸福に順序だとか、順位だとか、そんなことを言っている時点で傲慢な世界だ。冒頭でいきがったように、こうして何かを観て聴いて、何かを思うこと自体が幸福なことだったはずだ。生きていくこと、生きていること自体の喜び、あらゆることを「行う」ことによって自然に生まれる喜び、それをただ単純に受け容れることができなくなりつつある。そんな世界だ。


少なくとも僕はそんな人間になってしまったのだということが、最も哀しい。

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