まだ2ヶ月ありますけど、もう今年1位のラーメンは確定したので解説垂れます。

正直言ってここ数年でラーメンに関して文字通り食傷気味なところがあって、ここ何食かは素直に楽しめないところがあったんですけど、やっぱ上には上ってもんがあるというのを思い知らされました。まあ僕の中でラーメン単品は1000円までっていう決まりがあるんで、今回それを超えてる件についてはもう自分で決めたルールを自分で破ってるんですけど、自分ルールってそんなもんなので許して欲しい。
それと、僕の言う“ラーメン”は、ラーメン屋で出されている、あらゆる麺類のことを言うので、つけ麺も混ぜそばも油そばもラーメン枠に入れています。自分ルールなので。

僕が京都でラーメンを食べ始めた頃はもうまさに鶏白湯全盛期で、どこもかしこも鶏白湯、新店が出来たら鶏白湯と言った具合だったものですが、ラーメン界隈からすればこれは一過性のブームみたいなものだったそうで、そのころ大阪では泡系やら貝系やらが流行りだしていて、名古屋にはそのどれも来ていなかった。そして東京では日々新しいコンセプトが出て、新しい出汁が出て、時々話題性重視の突拍子もないモノが出てきていました。
今ではそんな過程を経て、本当に美味しい、もしくは営業力のある店しか残っていなくて、流行り廃れた台湾まぜそばも飛魚出汁もよくある1メニューになりましたよね。そして今また鶏醤油清湯が再ブームになっていて、差別化を図るためにブランド鶏を使ったり、生醤油にこだわったり、非常に地味ながら大変な努力をされている、というのが関西の現在です。

そんなブームの中で僕の家の近くに去年オープンしたのが«洛中その咲»です。僕のインスタを物好きにチェックしてる人達にはお馴染みの、僕が行き過ぎているラーメン屋(?)です。オープン当時はブームに漏れず、鶏醤油を主体とした大人しいラーメンでした。もちろん美味しくて、その時点で虜ではあったんですけど。お店のコンセプトとしては徹底的に身体に良いラーメンを素材と製法にこだわってつくる、というものなのですが、最近の拘りようはもう病的と思えるほどで、さすが亜喜英で確かな実力を見せつけた男が好きなことやってるだけあるな、といつも感動させられています。
これまでも手打ちの極太麺だったり日替わり出汁のつけ麺だったり試行錯誤の成果を見せてくれて、行くたびに違った味を楽しませてくれるエンタテインメント性の高いお店だったんですが、この秋に入ってこれまでの努力が完全に実を結んだ、集大成のような一杯を提供してくれました。

これです。

僕が2回ほどインスタにあげたつけ麺と風貌は似てるんですけど、全くの別物です。

つけ麺ってのはこれ。

これ、麺が浸かってる出汁が烏賊だったり飛魚だったり昆布だったりして、毎回やはり小麦と出汁と鶏のつけ汁とのバランス調整が非常に難しいんです。それはこちら側の責任なんですけど、美味しく食べる為に技術が必要ですらある。つけ汁への浸し方、啜り方、トッピングのタイミング、もろもろを考えながら楽しむものだったんですね。そしてバッチリ嵌った時にはもうアレよアレ……。

……それで今回がこれ。

結果的に三つの旨味をひとつに構築するのが難しい、ラーメン下手な僕にとってこれは大変ありがたい代物でした。何かと言うと、麺が浸かっているものが出汁ではなくそれ自体鶏ベースの濃厚な塩スープである。つまり鶏に、鶏を重ねさせる一品です。格段にわかりやすくなっている。
僕が食べた順番を追っていき、驚きを説明したいです。
まず塩スープに浸かった麺を啜る。お、意外としっかり旨味出してきてるな〜と思います。麺は食べ慣れてるので、ふんふん美味いな〜となる。
次に、麺に浸かってない茶色の麺(使ってる小麦も打ち方も違う)を、烏骨鶏と天草大王を使った鶏つけ汁に少しだ浸けて啜る。ふんふんなかなかシャープなつけ汁だな〜、初期のバランス取れてなかった時のつけ麺のつけ汁にちょっと似てるけど、やっぱ脂っこさとかクセとか抜いてきてるな〜巧いな〜となる。
そして、塩スープに浸かった麺を、そのつけ汁に、半分ほどつけて食べる……。

ここの衝撃が今年一番です。今年一番美味しかったラーメンの瞬間です。そしてそれは、後から追って中身が充足してくる悦びです。
僕は良かったものを分析しようとしてしまう悪い癖があって、だいたいはその分析によって自己完結して、記憶のフォルダに仕舞うような形態をとっているんですが、今回はもうまったく分からなかった、というのが正直なところです。前掲のつけ麺は3つのバランスを取る中で、自分にとっての最適解を見つけるゲーム的要素があったんですけど、今回はその余裕を打ち破るほどの強烈な「完成感」がありました。もしかすると自分の最適解に、ほとんどぴったり、元々当たっていただけなのかもしれませんが、それだとしても「僕の1位」であることには変わりがない。ともかく、驚きと、心地よい不可解に包まれて、快楽の中で茫然としてしまいました。茫然としながら、考えてすらいないんです。分からないけれど、分かりやすいので。これはたくさんのコトやモノに言えることで、分かりやすいことと分からないことは簡単に両立します。それは「分かりやすく分かる」と、「分からなく分からない」は全く次元も主語も異なるものだからです。そしてこのふたつが両立しているものの深みと、それに触れた人間の悦びの発散は桁が変わってくる。

この話は、もともと第一に、それを「良い!」と思わないと始まらない話です。良いとも思わなければ、分かろうが分からまいがどうでもいいものになります。それと、分かるとか分からないとか、そういう主観的で内省的なことに興味が無い若しくはもはやその力が無いような、現代社会の波に完全に乗りきったつもりになって呑み込まれているだけの人間も出会うことの無い感覚でしょう。
初めて衝撃的な音楽を聴いた時に、「ああ!!かっこいいい!!!!」となる感覚、そしてそのあと何度もその曲を聴くたびに、「ここがかっこいいんだよ、ああここも、ここも、ここがこうだから……」と少しずつ分かってくる。だけれども本当に心地が良いのは、「こんなにも大好きで、だからこそ分かりたくて、少しずつ分かってきたのに、どこまでも君には打ちのめされて、届かなくて、分からない、得体も知れない、畏れすら感じさせられる」という感覚です。こんなにもたくさんを分かったのに、分からせてくれているのに、君がしていること、君がそうであることの意味や、その過程は分からない。その分からなさに、深みや大きさ、貴さを感じられる。

この道のりの中で僕たちは、どこまでも分かろうとする努力が必要になります。判然としてなくても良いから、自分はここまでは分かった、ここからが分からないという区分けをすることで、そのひとつの存在の可視的な部分とそうでない空間・背景を、見えないけれども知覚するという構図です。ここまでを言うと前回のnoteと同じ要素を持っていることに気づき始めるでしょう。しかし僕は一杯のラーメンの話をしています。そしてこうして書いているあいだに、僕は何度もその存在を噛み締め、その実体を噛み締めたことを思い出して噛み砕いているところです。

お気づきになられるだろうが、僕がここまでで話したことは、ラーメンを、3口食べたところまでです。この1分足らずの間に既に、無意識の中ではこういった思考が回転し始めていました。何がそこまで幸せを感じさせるのだろうか、既に知っている麺の薫りと塩の旨味と鶏の迫力と、知っているものの掛け算でどうしてこうも分からない幸せになるのか……。この熱くも冷たくもない、「ぬくい」温度感だろうか、それとも本当は少しずつ、僕が知らない形同士になっているのだろうか……。そうやって、分かったり分かり始めたり、分からなくなったりします。そう、この存在は膨張も収縮もするのです、そして絶対量すら変革する。それは宇宙とすら表現できます。

分かるところと分からないところを知覚し始め、その膨張と収縮を感じる。これはひとつの作品の中に、確かな宇宙を感じていることにほかなりません。そしてここからさらに頭を悩ませるのは、「食べ進めるうちにどんどん美味しくなっていく」事実です。
たくさんのラーメンを食べてきて、特に家系とか鶏白湯の、二流の店に顕著なんですけれど、「1口目が一番美味しい」という性質を持ったものが一定数存在します。その世界には時間の流れがない。刹那的な悦びを与えられ、果てたあとは何も感じられない。当然そこに分かるも分からないもなく、ただ「美味しかった」という既に終わった感覚が遺るだけです。これは幸福とは言えないし、膨張も収縮も、時間もない低俗な絵画です。そうではなくて、やはり宇宙には時間の流れがある。無限を感じさせながら確実に有限であるその限られた総量の中で、あらゆるものが結合し分離し、少しずつ大きな塊となっていく。食べ進めているから量は減っているというわけではありません。嚥下したものは確かに自らの体内にあって未だ排出されず、すなわち自らもその宇宙に参加し始める。それさえも結合です。

僕はこの一杯を20分足らずで平らげたのですが、その間にもそこここで独立した変化が起こり続けている。その具体的な話をする前に、ラーメン自体が持つ変化への恐怖について簡単におさらいしておきます。
ラーメンの時間的変化ってほとんどがマイナスなんです。なによりスープは冷めるし麺はのびる。これは細い麺を熱いスープに入れているラーメンの宿命的課題です。そして皆、これをどのように克服するか、これを統一的なテーマとして取り組んでいる。そしてこれはつけ麺ですから、どうしてもつけ汁の温度と味が顕著に変わってくる。これも統一的な課題のはずでした。ラーメンもつけ麺も、熱いことが美味しいことになってしまっていた。その前提をこの店はこれまでから、少しずつ打破してきていました。たとえば、これはすぐになくなったのですが、醤油ラーメンと一緒に空の小さなお椀を出して、食べる前にスープを移しておいて冷めてから飲むように言われていた時期がありました。すっかり冷めた2口分のスープは熱さで隠れていた旨味を直に感じられてとても良かった記憶があります。ラーメンのスープは冷めたら美味しくない、という前提を覆そうという意図が見てとれました。
そして今回の一杯は、「最後まで美味しい」を超えて「最後がいちばん美味しい」になるために、あらゆる変化を遂げます。それは、「ひと口ずつが積み重ねであり、異なる旨みの蓄積である」という構図の達成です。これにより、最後のひと口が「最も美味しくなる」。
まず当たり前のことですが、鶏醤油のつけ汁に、既に塩スープに浸かっている麺を浸すわけですから、つけ汁の味が変わってきます。また別皿には塩スープに浸かっていない麺もありますので、これを浸すと温度が下がります。さらにチャーシューをつけ汁に沈ませると、そこから良質な脂が出ます。こうして何も考えずに食べ進めるだけでも、掴みきれない程の変化が起こっています。もちろん塩スープ自体の温度も下がってくるし、コシが強く伸びにくいといっても麺の食感も少しずつ変わってきます。もう頭の中では処理が追いつかなくなってきます。
さらに付け加えなければならないのは、食べ手の僕自身も全く同時に変化していることです。はじめの3口を味わったという記憶、それについて衝撃を受けているという事実と思考の展開、徐々に上がっていく血糖値、そして«ひとつひとつの変化に気づいていく»という変化、«そのうちのひとつまたひとつには気づかぬうちに味わっている»という変化……ラーメンそれ自体よりももっと複雑かつ並行的に、あらゆる変化が自分の体内に起こっています。それは人間が何かを摂取した時、同時にそれ自身が変革していることが分かる端的な例です。
すなわち、もちろんのことにはなりますが、人間は何をしても何を食べても、その時に変革が起こっている。もう少しラーメンに近い話をすれば、どのラーメンを食べても自分とラーメンが一体になって変化していることを感じられるはずなのです。しかしそれは、ほとんどの場合に自覚されない。それは言わずもがな、その時に対峙しているラーメンの変化を劣化としか感じられないからです。ラーメンは劣化し、自らは空腹を満たして“快復”していく。同じ場所にあって繋がっているはずなのに、二者はねじれの位置にいて、関わりあいながらも交わることも溶け合うことも無い存在に終始してしまう。変革の火はひと口ごとに点くけれども、繋がったり拡がったりしないということです。それはたとえ、それを良いと思っていても、そうなってしまうことがほとんどです。
変化を肯定的に捉えられること、そしてその変化が自らの充実と一体であるものとして受け入れられることが、この変革を自覚できる要件のようなものになってきます。それがこの一杯の作品の中であまりに自然に達成された。そしてもちろん、その変化は積み重なって旨味を増幅し、形作り、新たなものを生み出し、どんどん増えていく。だからこれが、今年最高のラーメンということになるのです。

さらにもう一歩踏み込んで説明したいことがあります。それは僕たちが何かを食べる時、実はそれを実際に目にする前から、食べ始めているということです。
ひとつひとつの悦びや哀しみを覚えていられないような人間には当てはまらないけれども、通常僕たちは、何か衝撃的な体験をしたらそれを覚えているものです。それは未来の自分がより幸福に生きられるようにするためで、僕らは歴史と同時に自らの歴史を学び続けることで、失敗と成功を繰り返しながら成長していきます。僕はどちらかと言うと不幸や哀しみが最優先で記憶に残るタイプで、今でもふとした瞬間に10年や15年も前の「少し嫌だったこと」が思い出されてしまうことがあります。その一方で幸せだったことはあまり覚えていられなくて、しかしその分、覚えていられているものの記憶は鮮明です。
繰り返しになるが、僕らは何かを食べる時、無意識のうちに過去に自分が積み重ねたデータベースを掘り起こしながら食べます。それは、今向き合っているものに近いものから探り始めて、その次に、生まれた感情や思考に近いものが引き出されます。僕がこの1杯を食べているあいだ、変化を感じ、結合を感じ宇宙と繋がっているあいだ、それと同時に、映画『海獣の子供』のシーンがいくつも頭の中を駆け巡りました。今こうして感じていることは今初めて感じたことではない、誰かに教えられ見出された感情の一部を反復し増幅している行為なのだと思いながら。
すなわち、食べた時に感じた思いは、既に感じたことのある思いの要素を持ち、それは、それを感じたことがなければ、感じなかったかもしれない思いなのです。この時間的な深みは何か衝撃的なものに出会わないと生まれない悦びで、この性格が一層この料理の価値を高めていく。過去に学び感じたことを思い起こすことは、自らの感情や思考を整理するためにとても重要なことです。しかしそれは外的な要因なしに為されにくい。だからこそ、こういった衝撃は非常に重要かつ貴いものなのです。

『ひとつひとつはとても小さいけれど、それがぶつかったりはなれたりしながら、だんだん大きくなっていく、それが、おもう、ってことでしょう……?』
『そしてそれは、星の誕生にそっくり……ということだね。』

『宇宙はあるひとつから生まれ、そこから星が生まれ、人が生まれた。だから人と星はつながっている、いや、同じなんだ。』

過去の、抽象的な思いを映像化してくれたその具体と、今ここで感じている具体とを結び合わせる。これほどに「生きる」ということばに相応しい営為は他にないように思います。あの時思ったことを、もう一度思い、しかしそれは少し変わっていて、そしてその瞬間ごとに変わり続けている。それは自らが、食べ物を摂っていくあいだに確実に、それとそこに付随するあらゆる具体と抽象をも摂取し蓄積し、変容しているということです。それが何の役に立つかは知ったことではなく、そういった体験をしたということが学びでありそれ自体が幸福と言える。ひと口、またひと口と、同じものを食べながら違う思いを抱く、だけれどもそれらは全て同じで、つながっていて、つながっている自分もまた、同じで、しかし瞬間ごとに違っていく。こういった繰り返しが、生きるために不可欠な、食べる、という行為の中に宿ることは、実は至極当然のことで、そうであるべきものだったはずです。そして、それら全てのうちほとんどは、分からない。

『宇宙を研究して分かったことは、宇宙のうち少なくとも90パーセント以上は、観測できない暗黒物質であるということだ。つまり僕たちは、何もかもを分かっちゃいない。つまり、人間のことも、何も分かっちゃいないんだ。』

分からないが、ここまでは分かる、そして分からなくなる、また分かる、それまでに分かっていたから分かり、それまで分かっていたから分からなくなる。そのあいだにも、変わっている、それが変わり、自分が変わり、それを分かり、分からないうちに変わり、変わっているのかどうかも分からない。しかしただそこに悦びがあり、感動があり、口に含んだとき、最初の感情に、美味しいがある。ぼくは自らの感情の、どこに立ち竦んでいるのか、いや、駆け回っているのだろうか、今どこにいて、これからどこに行くのだろうか。それはまさに畏れです。外を向けて畏れ、内を畏れ、それぞれに何者かが宿る。考えなくとも畏れを感じられる瞬間は、現世と幽世が出会う場所へ、誘われた瞬間であり、それは僕にとっての強烈な救済でした。

終わりが見えてきた頃、はじめは塩スープに浸かっていなかった茶色の麺を入れ、改めてつけ汁に潜らせて啜る。麺を食べ、わさび菜を食べ、麺を食べて、スープとつけ汁が残る。そして指示のとおりに、つけ汁をスープに入れて、飲みます。
そこには、これまで食べてきたものの全てがありました。終演の挨拶のために、出演者が全員出てきて笑いかけてくるような感覚でした。肉の旨味、わさび菜と玉ねぎの爽快感、麺の薫り、そして、それまで変化してきた過程全てが、そこにありました。ぼくはそれが終わっていくのを惜しみながら、拍手を送り続けるような気持ちで、それまでの物語を振り返りながら、最後の1滴まで飲み干しました。ついに全てが、自らの内に蓄積した。この20分の間に生まれた幸せが全て、自分の中に宿ったのです。

そしてこれらはまたこれからへつながっていく。何かまた、新しい衝撃に出会った時、ぼくはまた、今回感じた衝撃と再び出会うでしょう。そして彼らはつながり、また新たな何ものかを生み出すでしょう。自らが変わることを自覚し、それを、悦びを以て迎えるでしょう。
そしてそのおそろしいほどの関わり合いは、つながりは、積み重ねは、成長は紛れもなく、生きる悦び、そのものなのです。

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