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【創作】木漏れ日の中の池、餌を待つ鯉―――働き蜂の羽音

ただ、誰にも会いたくなかった。

自分を自分という個だと認識されることも、心情を理解されようと―彼らなりの言葉でいう―「思いやり」をかけられることも、すべてがとにかく嫌だった。
自分自身への嫌悪感がひどく、
とにかくただ自分ではない何かになりたかった。
どこか遠く、誰もわたしのことを知らないところへ行きたかった。

自分という存在そのものから逃げたかった。

わたしは本質的な部分で言うと、人間が好きだけど嫌いだ。
視線も、話し声も、呼吸する音ですらどうしようもなく嫌になる時がある。
これは物心ついた時からずっとそうで、それによってよかったことも、もちろん悪かったことも数えきれないくらいあった。

一人になりたい時は、誰もいなくて空いている、ちょっと郊外にある
悪く言うとさびれたような、うらぶれた場所に行く。
廃墟に行くのも好きだった。
もうそこには、わたしを脅かすものはとっくの昔にいないからだ。

その日は、少しこみいった山の中にあった植物園に向かった。
高度がある程度あったので外気はひんやりとしていたが、日差し自体は暑かった。
併設の美術館やらを、まるで今甦ってきた死人のような足取りで観覧したのを覚えている。
遠くの水面の向こうから降りてくる、光の膜を通したようなボケた印象を覚えた。
見終わった後、美術館の建物から出たところに花壇と池と橋があった。
なんてことはない、とくに特徴のない鯉が泳いでいる池。
はく、はくと口を開け閉めする鯉を、橋の欄干に体重をかけてただじっと見た。

わたしは永遠に喪ったのだ。
自分の世界の内側に干渉し、自分と世界を唯一繋いでいた「世界の観測機」のようなものを、自分自身の手で粉々に打ち砕いてしまった。
わたしと世界を繋いでいてくれた貴重な観測機は、ありとあらゆる怖いものが見えないようにわたしを守ってくれていた。

わたしは幼く、気づくことができなかった。
それがどんなに大切で、ありのままの世界はいかに恐ろしいものに満ち溢れているのか。

観測機を失った世界は、見える光景がまったく違った。

耳障りな虫の羽音が、ずっとせわしなく花畑から聞こえている。
鯉が背びれをきらめかせて潜っていく。ぽちゃんと音がした。

自分でも気づかないうちに流していた涙が池に落ちた音だろうか。
鯉もきっと、涙のランチなんていらないよね。
役に立てなくてごめんね。と申し訳ない気持ちになってきたので泣くのを止めたかった。

ぶん、ぶんと羽音が聞こえる。きっと蜂だ、少し野暮ったいこの飛行音はおそらくくまんばち。
あのぽってりとしたフォルムで、飛行という神秘を成し遂げているのがなんともいえず好きな虫だ。

蜂はすごい、とふと思った。
誰にも何も命令されていないのに、ただ一生懸命に花の蜜と花粉を集めている。
ただひたむきに、誰も見ていなくても。
何十、何百という花から少しずつ集めた花粉。
この蜂のように、生きていきたいと思った。

鯉はいつのまにか消えてしまっていた。


※突然創作を書いてみたくなったので。フィクションです。


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