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子ヘビと1年間

白ヘビのまろやさんをお迎えして今日で1年が経った。

飼い主には子どもの頃からヘビへの憧れがあって、ヘビに「不思議なもの」「かっこいいもの」「多くの人に怖がられるもの」というポジティブなんだかネガティブなんだかよくわからないイメージを抱いていた。まろやさんを我が家にお迎えした日、このよくわからないイメージたちは一瞬で「ヘビはかわいいもの」と塗り替えられた。爬虫類ショップの容器から新しい家に放たれ、おずおずびくびくと周りをうかがうまろやさんの仕草に心を射貫かれてしまったからだ。ヘビは臆病で、表情豊かで、飼い主は彼女が怖いめに遭わないように守っていかなくてはならないと、そう思った。

そう、まろやさんは女の子だ。飼育初心者の飼い主は、爬虫類ショップで「最初に飼うならオスとメスどっちがいいとかありますか」と尋ねた。店主とアルバイトの青年は顔を見合わせながら、「メスは繁殖できるようになるまで時間がかかるから、メスかな」と教えてくれたのだった。

初心者なので繁殖は予定していなかったが、まろやさんのお世話をしている時、たまに店主の言葉を思い出すことがあった。「繁殖できるようになるまで」。まろやさんに、いつかお婿さんを迎えようか。そんな考えがよぎるやいなや、今までに抱いたことのない感情が湧いた。

「どこの馬の骨だかわからない蛇に、うちのかわいいまろやさんを?」

馬なんだか蛇なんだかよくわからなくなりつつ、なんだこの感情は?と我に返った。飼い主は知らないうちに、まろやさんを娘のように思っていた。それで飼い主は、飼い主は一応人間のメスのはずだが、これではまるでまろやさんの父親のようではないか。

ところで筋肉少女帯の曲にいくつか父娘を歌った曲があって、飼い主はそれらの曲がかなり好きだ。今思い当たるもののひとつはアルバム「THE SHOW MUST GO ON」の中の「月に一度の天使」で、これは間に「愛の讃歌」のカバーをはさんで前編と後編の二曲に分かれている。前編はおそらく夫婦の離婚で離ればなれになった父と娘が月に一度だけ会う、というストーリーで、父は幼い娘に自分の好きなもの(江戸川乱歩の小説とか『ドグラ・マグラ』とかプログレとか)を次から次へと与えていく。そうしているうちに娘は成長して、次第に父親から離れていってしまう。後編では、少し大人になった娘がまた父親に会いに来るのだが、その時の娘には父親の好きなものが確かに受け継がれている。何でも淡々と書いてしまうのが飼い主の文章の悪い癖だけど、歌詞と曲が合わさると泣けるので曲を聴いてください。もう1曲、アルバム「Future!」の「3歳の花嫁」は幼い娘と、もうじき娘と別れることになる父親とを歌った作品で、これもかわいくてせつなくて良い。

作詞者の大槻ケンヂさんは独身のはずで、創作というものに造形が深くない飼い主は感動しながら「なんでこんな詞が書けるのだろう?」と不思議に思ったものだった。もうちょっと推しの話が続きますがいいですか。飼い主は大槻ケンヂさんのエッセイも大好きで、この前は『いつか春の日のどっかの町へ』(角川文庫)を読んでべちょべちょ泣いたのだ。この本の「アンコール編」の一章が「妄想愛娘とギター散歩」というタイトルだった。タイトル通り、氏がひとりでギターショップめぐりをしながら、傍らにあれこれ口を出してくる愛娘を妄想するという内容だ。この章に差し掛かったとき、飼い主は「あ、娘がいた!」と思った。少なくとも妄想の中に。ジェンダーレスの時代ではあるけれど、「娘」とは特別な概念だよなあと思う。

娘ではないけど、筋肉少女帯の曲で父子の別れを歌ったものだと昨年発売の「君だけが憶えている映画」の「坊やの七人」もいいですよ。もうこの話はいいですか。そうですか。

うちの愛娘のまろやさんは1年経って、飼い主の子とは思えないほど美くしく育っている(DNAがなにひとつ合っていないのだから当たり前だ)。ごはんのおねだりには上目遣いを駆使する小悪魔ぶりである。あと、人間でいうとほくろのようのものかもしれないが、いつのまにか腰のあたりに赤い点が2つできていてちょっとセクシーでもある。悪い虫がついたらどうしよう。お父さんは気が気じゃない。ヘビダニだけは付けないようにお掃除をこまめにしようと思う。そんなまろやさんが、最近になって今まで食べてきたごはんを食べなくなってしまい、お父さんは頭をかかえている。彼女の命に別状ない限りは、愛娘に頭をかかえるのもまた一興かもしれない。

ちなみに昨年「君だけが憶えている映画」のインターネットサイン会があったのですが、自分の名前を呼ばれるのが恥ずかしかった飼い主は、筋肉少女帯のメンバーの皆さんのサインを「まろや」宛にもらいました。よかったな、愛娘よ。




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