0229萌え動く

二月二十九日 萌え動く

16時37分。この日最後から2番目のバスは私ひとりを乗せて、ブザーの合図で停留所にゆっくりとまる。両替しておいた570円を料金箱に入れ、「ありがとうございます」と小さく言ってバスから降りる。はっとして、思わずあたりを見渡した。どこかの風のふもとから、沈丁花の香りがする。

この(懐かしい)感覚はどこで覚えたものだろう。
そして、どこからきたのだろうか。

姉が貧血で寝込んでると聞いて休みをとってこのまちにきた。

新幹線からも空港からもどこからも離れた
ゆっくりの電車しか運んでくれない小さな駅の
そのまた先の小さなまち。

「陸の孤島に島流しだね」と
お嫁に行く時、笑って話した。
あれから10年。
あんなに仲良しだったのに、
もう何年も会っていない。

「みんなが休む時に休めないような仕事なんてやめちゃいなよ」
今年の正月も帰れないと告げた時、姉にそう言われたことがある。
たわいもない冗談だったと思うけれど私はちっとも笑えなかった。
悔しくて、やるせなくて。
電話も手紙も、それからすっかりしなくなってしまった。

だから二日前「幸子、お願い」と連絡があった時
私は本当に、私が行くことが大事なような気持ちがしたのだ。

バス停から大野家までは歩いて約20分。
目印と教えてもらった美容室は今日は休みで
それ以外にはこれといったお店もない道を黙って歩く。

通りがかった白い軽トラックが、速度を落とし
「どこまでいくの?」と尋ねてきた。
「あ、大丈夫です、すぐそこなので」

小さなまちだ。このおじいちゃんもきっと
大野家がどこにあるかは知ってるのだろう。
もしかしたらどこかで会ったことがあるのかもしれない。
だから何にも言わないでおく。

誰もが誰もを知っていそうで、
つながりのある田舎は
ちょっと緊張するのだ。

橋を渡り、細い舗装の道を入った奥が大野家で
家が見えるところまで行くと、足音に犬が吠えはじめる。
また少し進むと、玄関から赤いセーターの子が
飛び出してくるのが見えた。
砂利を敷き詰めた家までの道を、靴のかかとを踏みつけたまま跳ねる。

「さちこおねえちゃん?!」
「みよちゃん?大きくなったね」

本当にひさしぶりのはずなのに
みよちゃんはあったばかりの私の手をとって
小走りで家に連れていこうとする。
やわらかな指に力をいっぱい込めて。

「うち、ねこがいるの。さちこおねえちゃん、ねこすき?」
「うん、すきだよ」
「よかった!そしたらないしょで、きょうのよるいっしょにねる?」

田舎では猫なんて家のなかでは飼わないと言っていた姉を(ないしょ)の言葉で思い出す。

「お母さんのぐあいはどう?ごはんはちゃんとたべているの?」
「うん。さっきまで、おともだちがきてた」

年が近い友達がいると言っていたっけ。たしか、かよこさん、だったかな?
靴を脱ぎながら、玄関に並ぶサンダルと落ちた椿の花びらを目にしたら、
姉の暮らしが急に近くに見えてきた。

「お邪魔します...」

変なの、と思いながら、他に浮かぶ言葉もなく
家にあがって、姉のもとに向かう。

貧血くらいで呼び出す人じゃないよね?
お兄さんはまだ、単身赴任から帰らないのだっけ?
具合いの悪い人への配慮にかけているような気がして
私は何を言葉にしようか迷う。

その古い廊下はつめたく
カレーを煮込んだ香りと、猫の気配がわずかにした。






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