七月二十三日
何故だかしらないけれど、この写真をみていると、幼い頃父と出かけた川沿いの公園のことを思い出す。
あの頃私は小学校の低学年くらいで、休みの日の午後、二人の妹と一緒に父の車で連れていってもらったのだ。母がいなかったのは、たぶん、お腹に赤ちゃん(弟)がいたから。
その公園にはブランコとすべり台と、ぎっこんばったん(シーソー)と鉄ぼうと砂場があって、三姉妹の誰もが大好きな場所だった。いつまでいたって全然あきない。
そして私たちがいろいろな遊具で遊びまわっているあいだ、たいてい父は、動物の形をした置物の上で背中を伸ばして、ストレッチをしているのだった。
「ああーーーー。気持ちがいいなあーーー」といって伸びをする父の気持ちが、私にはちっともわからなかった。「そんなのが気持ちがいいの?」「空と地面が逆さまにみえるから??」。そう尋ねると父はいつも「からだが伸びるからね」という。
「からだがすごくこっている」という、その「こり」というものを、私はその頃しらなかった。だから、何度きいても父がブランコやシーソーより、カバやゾウの形をした置物の上で背中を伸ばす方が気持ちがいいというのがピンとこない。
話しているのに、全然つながることのできない感覚。
あの、今にも雨が振り出しそうな空気と、この写真のあかりの感じは少し似ている。なによりこの角度は、「肩車をして」と父にねだる時に見上げた、あの感じににているのだ。
手の届かないところにあるものは、何かとても意味がありそうに思える。肩車のとき、父のシャツを靴で汚さないようにとバランスを取ろうとするけれどちょっと怖くて、頭におもわずしがみついてしまったこと。整髪剤のついた父の髪は、苦手な油の匂いがしたこと。妹たちが「かわってー!」とからみついてきても、「高いからこわいよ」といってなかなか譲ろうとしてあげなかった、特等席に座った気分。
この写真を撮った人にとって、この風景はどんな意味を持つものなのだろう。どれくらい昔から、暮らしの中に存在してるのだろう。
なんだかそんなことを、今回は書いてみたくなった。
七十二候は、桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)。
桐というと、母の着物箪笥を思い出す。「とっても立派なものなのよ。いつかあなたに譲るからね」といわれたのも、同じ頃の記憶。どうしてこんな白くて退屈にみえる箪笥がそんなに立派なものなのか、やっぱりわからなかったその時。