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自分とはそのような一面を持つ存在なのだと受け入れると、区切りというものがあるのは救いだなと思う

お正月とかお盆とか、新月とか満月とか、あるいは冬至とか夏至、ライオンズゲートでもなんでもよいけれども、区切りというのは救いだ。ゴールがない、終わりがないというのは、一見、永遠をイメージして安心する人もいるかもしれないけれど、永遠に同じ状態が続くというのはある意味疲弊するだろうなと思う。

例えば、お金の心配もなく嫌なことも起きず、日々、波風もたたない。最高じゃないかーと思うけれど、それが永遠に続いたとしたら果たして幸せなんだろうか?
昔、私は暗黒期にあまりにも人間関係に疲弊して、「アラスカに引っ込んで、猫と一緒に家に引きこもり、Amazonから本を届けてもらって一生好きな本だけ読んで暮らすんだ。それが幸せ♡ 神様、一生のお願い」とけっこう真剣に思っていたのだけれど、それが続いたらきっと私は叫び出したくなるような煮詰まり感を感じていただろうなと思う。

私はお酒を飲むのが好きだけど、毎日毎日、好きなだけ飲んで好きな人たちと飲むだけだったら「私の人生、これでいいの?」と思う気がする。たとえ、ある時はどんちゃん騒ぎ、ある時は焚き火を囲んでしっぽりするというような状況の変化があったとしても「毎日飲む」だけが永遠に続いたら、ある朝、突然にため息がだそうな気がするのだ。

人は変化を嫌うけれども、同じくらい変化を求めてもいる。嫌な変化、悪い変化は避けたいけれど、いい変化、楽しい変化はほしいのだ。
そして、ここがポイントなのだけど、そのいい、悪いはあくまでも自分の都合であるということだ

そして世界はそんな私たちの都合には関係なく変化しつづける
それを私は循環といっているけれども、栄枯盛衰とかクラッシュアンドビルドとか、そういう表現を取る人もいる
まぁ、そこはお好みで(笑)


こちらの都合とは別に変化しつづける世界の中で
変化を取捨選別し、時には怯え、拒否し、時には欲しがり願う

取捨選別することが悪いのではなくて、自分とはそのような一面を持つ存在なのだと受け入れると、区切りというものがあるのは救いだなと思うのだ。

ここまでに手放そうとか、このめんどくさい状況は年内で終わるとか
ゴールはまだ先だけど、まず今達成することは決めて、それを積み重ねていくこととか、そういった区切りをつけることで、変化することを受け入れていく。

それは主に嫌なこと、辛い状況は永遠には続かないというポジティブな手放しとして体験することになるけれども、同時に、いいこともまた永遠には続かないという体験も待っている。
自分にとっての都合のよいことばかりを求めるなということなんだけども、それは自分が我慢しなさいとか、わがままをいっちゃだめというようなレベルの話ではない。

要するに自分の都合のよいことばかり起きなくても、あなたは大丈夫なんだよという自己信頼の経験値をあげるということなのだ。

自分の都合の良い出来事ばかりを求めたくなるのはなぜだろう?
「そうじゃないと私はダメになる」「怖い」「不安」「自信ない」という心じゃない?
その自分を手放しさないという体験

いいことがあったら感謝して、執着しない
そうすると悪いことがあっても、つぶれない自分がいることに気が付く
誰にでもはそういう類の神聖さが宿っているのだろうなと思う



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