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ある日のこと

朝起きて1時間くらいぼーっとしたのち、予約していた住所非公開の台湾料理屋さんへ行きランチを食べる。いろんなやり方があるのだなあ、と思ってたのしくなる。うまいうまい。

細々とした作業が残っているので電源確保ができるカフェへ。ここ、穴場で作業が捗る。のだけど、その日はアラサーらしき女性2名がおり恋愛話が筒抜け。ついつい聞き入ってしまう。

好きで好きでしょうがない男性がついにLINEを未読スルーするようになったと嘆くひとり。ひたすら「そんな男やめときな」と説く、もうひとり。

「未読ってちょー意思のかたまりじゃん。いちいち読まないんだよ? 絶対付き合ってもめんどくさいじゃん、そんな男。だいたい、こだわりきつい男ってさ〜(長々続く)」

話を聞きながら「非表示にすればよくない?」と、このふたりからすれば「そういうことじゃなくて」なことが思い浮かぶだけの中年の午後。いや、でも非表示機能はわりといいんですよ。送る人を間違って誤送信しがちなので(過去、何度恥をさらしたことか)連絡過多の時わたしは普段やりとりしない人は非表示にしている。目的は違うけれどさ。

だけどきっとこちらの女性は、非表示にしても見にいってしまうっぽいから意味がないかもしれない。そして次に好きな人ができたら一気にそちらへいきそうで、いい。素直でわかりやすい人は、それゆえ多少めんどくさくてもかわいいと思う。

その後、作業はそこそこ捗る。お茶受けがかわいかった。

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古着屋さんをめぐる。かわいいなあと思った古着が9800円。ここ最近、金欠ぎみなので諦める。貧乏性なので古着だと5000円前後くらいじゃないとすっと買えない。まあ、貧乏”性”というか、いまリアルに貧乏ぎみなんですね。

歩きながら、おいしいものが食べたいなあと思い、そこから先日読んだ土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』を思い出す。

ある日SNSのタイムラインに、土門蘭さんと桜林直子さんのcakesでの連載『サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記』にまつわる投稿が流れてきて、なんの気になしに読み始めたらおもしろく、勢いづいて「お布団の中でスマホほじほじ真夜中なのに」の儀を遂行、生きのびるブックスでの土門蘭さんの連載『死ぬまで生きる日記』にたどり着いたやつ。

土門蘭|死ぬまで生きる日記
『「解決しよう」と思わなければ、問題は問題ではなくなるんです』

ああ、しあわせを感じることがこんなに困難で遠いひとがいるのかと驚いてしまった。つくづく自分の物差しで人の苦しみをはかってはいけないなと思う。

生きるって大変だ。生きていくためにこなさなければいけないことが年々増えていく。とても窮屈で不安で、荷が重い。

私は自分の感情を「書く」だけでなく「読む」ようにもなった。

毎晩書く日記のくだりは共感するところが多かった。というのも、わたしもつい先日まで、その日あったこと・会話の内容・思ったことなんかをどたどたと書き綴っていた。その日記でのわたしはどうしようもないくらい、くよくよしている。

書き綴っている日々のなかで気づいたのだけど、日記を毎日書くようになって、日記のくよくよした自分と、今日を生きた自分の並行世界(のようなもの)ができあがってくる。そしてくよくよした自分がどんどん「ただの過去」になっていき、今日を生きる自分がより浮かび上がってくる。いろいろと吹っ切れる。そうして、少しでもくよくよしないよう生きたいなあ、と思うに至る。日記、おすすめ。

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↑先日、みずき書林・岡田さんに『旅をひとさじ』の束見本をいただき(毎日ではないけれど)手書き日記に移行。コデックス装はパカパカ開くので大変書きよい。

土門さんがお寿司屋さんへ行き、お寿司をおしいく感じたところで「ああ、よかった!」と思ったことも思い出し、さて、わたしは今晩なにをたべようかと考える(自炊意欲ゼロ)。

そうして、町中華。ずっと来てみたかったお店。人気の町中華でも「ああ結構高いな」とか「そこまでおいしくはないな」なんてこともあったのだけど、ここのオムライスはとても普通においしかったし適正価格。飲み屋のような三辺・コの字カウンターもいい。

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注文していたこのお店の人気メニュー・オムライスがきた。

と同時に、わたしの後に入店した右隣に座る家族の男児がわたしのオムライスを見て「えー!!!僕のほうが先に食べたかったのにー!」と大きな声で言った。みんなで大笑い。

「ごめんね。君もオムライスを頼んだの?」

と聞くとうつむき、隣に座っていたお母さんが「ここに来たらいつもオムライスを食べるんですよ〜」と教えてくれた。そこから酢豚もおいしいやらレバニラもいいやらレクチャーを受けていると、わたしが注文していた餃子もはこばれてきた。

わーい!と小皿にラー油を入れ、お酢を入れる。しかし醤油がない。およ?となったその瞬間、左隣に座っていたサラリーマン青年がスッと醤油を差し出してくれた。

「わ!ありがとうございます」

「そこの席、醤油だけないなと思ってました笑」

えー!めっちゃ好青年!ありがたくなって「餃子一緒に食べませんか」と言うと「いいんですか?じゃ遠慮なく…」と餃子シェア。聞けば転勤で最近東京へ来たばかりらしく、ここのお店もはじめてだそう。彼もやはりオムライスを食べていた。右隣のお母さんが「ここのオムライス、おいしいですよね〜」と言う。うん、おいしかった。

こういうとき、なんと言って去ればよいのかしら?とほんの少しだけ悩み、おやすみなさいと言ってお店を出る。

気候的にもとても気持ちがよかったので、そのまま歩いて家に帰る。とある道沿いのある駐車。ピチピチ駐車っぷり、何度見てもやっぱり笑う。いつもこう。どうやって車に乗るん。

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わたしは雑でルーズな生活をしているけれど、それでも「きょう」を重ねて暮らすことが好きだと自覚できているくらいには好きで、特別いいことがあったわけでもなくただ暮らせているそれだけで、ふとしたときに生(せい)の心地よさを感じる。

なにを食べよう。金欠だからいまこれは買えないな。この車両に乗ったらエスカレータのところで降りられるのか。あ、冷蔵庫にもやしあるの忘れてた。ぎゃ!こんなにも猫の毛が。風呂掃除めんどくさ…。

そんな程度の生活。毎日たのしいなんてことはまずない。それでも暮らすことはとても好きだ。

この日は、なんてことはないけどとてもいい日だった。

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