見出し画像

くそやろう番外編;怪物




2023年6月25日(日)


映画館で、ある映画を観た。

映画館で映画を観ることは、めちゃくちゃ多いわけじゃないけれど、
とんでもなく好きなことの一つだ。
あの大画面、大音量の没入感と、
ふかふかのシート。
コロナ後から隣の席に知らない人が座ることはほぼほぼなくなった。

ぶっちゃけコロナ禍に入ってから映画館に行く回数がめちゃくちゃ増えた。
隣に人が座るのは強制的にできなくなったし、誰かがポップコーンを食べる音が聞こえることもなくなった。
その期間の影響は今も続いている。
コロナ前の映画館よりずっと好きだ。



今回観たのは、
「万引き家族」などの監督をしている、
是枝裕和監督、
「花束みたいな恋をした」などの脚本家、
坂元裕二さんがタッグを組み、
音楽家の坂本龍一さんが劇中音楽を担当した
『怪物』という映画。
カンヌ国際映画祭という何の知識もない自分でも知っているような名前の映画祭で、脚本賞を受賞した、話題作である。

この映画を観て感じたこと、
考えたことがあまりにも多すぎて、
夕方に河原の石の上で記事を書いている次第だ。
映画を観てから一日たったけれど、
今日一日ほぼこの映画のことしか考えられなかった。


映画を観てから一日たったから、
しかも一日中そのことを考えていたから、文章を書けるくらいには考えや想いがまとまったのかというと、
まっっったくもってそうではない。

この映画は一言で言うと、
『一言では言えない映画』
なのだ。(つまり言えていない)

そんなことを言ったら一言で言える映画なんてないのだけど、
もうこれは本当に、
もうなんと言っていいのかわからない、
もっと言ったら
自分がどんな気持ちなのかわからない、
何をおもって、何を感じて、何を考えたのか、
そういったことが自分でひとつもわからないような、そういう映画だった。

何かの作品を見て、そんなふうにおもったのは自分には初めてだったから、
この作品は、一生忘れない作品になったと見終わってすぐにわかった。



とにかくまず一つ、
映画を観た後のちいの状況を説明すると、
涙が止まらなかった。
後半のあるシーンから(ちいにはよくあるけれどだいたい泣き始めは絶対に泣くシーンではないところから始まる)、
最後にかけて、
ずっと苦しかった。
だけど何が苦しかったのか、
どうして泣いているのか、
ずっとわからなかった。

涙が止まらなくなったのは、エンドロールが流れる直前。
目にたまった涙でラストシーンが途中からほぼ見えなかった。
エンドロール中、そして消えていたライトが再びつくまでの間ではそれはおさまらなくて、
掃除のお兄さんの迷惑にならないようなんとか一度ぬぐった涙は、映画館のトイレでまたあふれた。


だけど、
なんで泣いているのかがわからなかった。
いろんな感情があるのは確かだった。
苦しい映画でもあった。
だけどこんなに止まらなくなるほど、
あふれ出すほど自分に刺さったものはなんなのか、
何がそんなに自分の心の奥に届いたのか、
その時は全くわからなくて、
でも、
どうしようもなく心から、体全体を、
ちいの今までも、今も、これからも
全部を包み込むほどに濃く大きな何かが自分に届いたのがわかった。



麦野湊  星川依里


物語の主人公の名前だ。
この二人のことを考えると、というか、
涙が止まらなくなったとき、頭には二人の顔が浮かんでいた。
それだけで涙が止まらなかった。
ふたりは小学生、クラスメイト。
純粋でまっすぐで、だれよりも透明な心をもっている。

そして強い。
特に依里。

だけど弱い。
そのそれぞれにはもちろん理由がある。


ただ人生を生きているだけなのに、
ただ人間が
それぞれの人生を生きているだけなのに、
どうしてこんなにも、生きるのは難しいのだろう。



****



記事を書き始めてから、だいぶ時間が経った。
7月16日(日)、
二回目の怪物を観てきた。


以前よりもスクリーンは小さくなったが、
まだ観る人は多かった。
自分はおそらくあと一回は最低でも観にいくんだと思う。
もっと人が少なくなって、静かで、空っぽの劇場に。


二回目もやっぱり心は大きく引っ張られて、
これを観た後は人に会うべきではないと再確認した。
うまく会話をすることができない。
心から溢れるものが多すぎて、むき出しだから、
うまく受け取ることができない。

個人的な話だけれど、
ちいの心がむき出しになることなんてそうそう無い。
ある意味常にむき出しで生きているのだけれど、
それを内面からではなくて何かに影響されてすること、そしてそこから戻って来れなくなることなんて、そうそう無い。
だから一回目に観た後も、今も
とても戸惑っている。

何かの作品を摂取して、自分に刺さった時、
どんなに痛くても、苦しくても、この感覚を忘れてしまう方がこわい。と感じることがある。
だから二回目のエンドロールを観ながらちいは
もう一回観たい、と強くおもった。







どうして生きるということは
人間が自分の人生を生きていくということは、
こんなにも一つ一つが難しいのだろうか。
どうしてこんなにも真っ直ぐ生きられないのだろうか。

自分が真っ直ぐだと信じているものは、他人から見たらぐにゃぐにゃに曲がっている。
そういうことはある、と理解していても
無意識のうちに押し付けてしまっていて、
それが相手をどうしようもなく苦しめてしまっている。


ただ、生きてきただけだ。


ただ、生きてきて、
その中で得たものを持ってそれぞれ進んでいる。
それしか信じられるものがないからだ。

それしかない、なのに
それが誰かを傷つけてしまう。
誰かの進む道をはばんで、その人が生きることを悩んでしまう。
しかもその誰かは、
自分にとってどうしようもなく大切で、かけがえのない存在だったりも、してしまうのだ。




生きることは本当は
一番大変で一番苦しくて、
一番難しくて一番わからない
けれど一番楽しいことだ。

そして本当は難しくない。




****



この作品がいま生まれたことは
それだけで希望だとおもった。


この作品が苦しいのは
この話が紛れもなく現実で、
必ずどこかに存在していることで、
それが何か特別に浮かんでいるのではなくて
とても普遍的に、日常に、
ただただ存在している
今の
現実の話だからだとおもう。

ただの現実なのに、
それが何よりも苦しかった。
そして悔しかった。



この作品が希望なのは
どこか特定の決まった人にとってでもなければ、ちいにとってだからでもなんでもない。
この世界のとか、この作品が存在していることが、とかではなくて、
なんというか、
この作品そのものがそのまま、希望であって。
怪物は、希望と言いかえられる。
そんな存在と出逢えたことが、
またちいのこれからの希望になる。


この作品を生み出してくれた全ての人に、
とても足りないけれど、このちっぽけな心の底から本当に本当に感謝している。
この作品をつくってくれて、
こんな美しいまっすぐな希望を届けてくれて、
本当にありがとうございます。




****



読んでくれた人はもうわかっているかもしれないけれど、まだまだちいはこの作品を引きずるのだとおもう。
次いつ観に行こうかな。
平日人が少ないときを見計らってまた観てきます。
こういう出逢いを無駄にしない人生をつくっていきたいです。


いつもありがとうございます。
心から。

ちいでした。!☻










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?