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お豆腐とパンケーキ

『正論の暴力』

もちろん暴力は正しいという意味ではない。
正論という名の暴力、という意味。
(なにそれ?)

はじめに、
私は人一倍ストレスに弱いと自覚している。
感情の波がジェットコースター。
1つの事で天まで昇り、
1つの事で奈落の底に落ちる。

奈落の底にいる時の人間というのは、すっかり疲弊して心のキャパと世界を見る視野が通常より小さくなっている。
己の絶望と向き合う事で精一杯なのだ。
飯を食って風呂に入って寝て起きる事だけで骨が折れる。死にたくはないけど、生きる以外の選択肢を探してしまう。もちろん、そんな状態の自分自身を愛せるわけも無い。

理由の明確な絶望もあれば、原因さえ分からないどこからともなくやって来る絶望もある。マジでこれはなんなの?やめて?

ところで
正論を辞書で引くと、
『道理にかなった正しい意見』
てきな事が書いてある。
正しい道ってなんだ?
だれがどう決めたもの?

心身が疲れた人というのは、心がお豆腐になっている。やわやわ。
お豆腐はもちろん、固いものにぶち当たったらつぶれる。揺さぶられたらつぶれる。
そんなお豆腐さんにとって他人の正論とはボーリング玉をみぞおちに一発食らう様な感覚だ。痛い。つぶれる。

自分がどうするべきかなんて本当はわかってるんだ。わかってるけど今はできない。だから悲しいし悔しいあーあってなってる。
(めんどくさくてごめんな)
そーゆー時に我が物顔で正しい言葉たちをぶちこまれても『あわあわ(^^)』としかならない。

正しい事は正しい。しってる。
正しい事は大切。しってる。

でも正しいって、弱ってる人は救えないんだよな。

じゃあどうしたら?

特に私のようなタイプの人間は、受容と昇華が救うと思っている。

受容とは『相手の気持ちを否定、批判せずありのまま受け入れる』って事。
昇華は心理学におけるストレス防衛機制の一つで、『心の葛藤を価値のあるものに変える』事。

受け入れる、と言っても
他人の絶望は所詮他人の絶望だからなかなか理解できないよね?それで良いんだ。
薄っぺらい『分かるよ~…』なんて求めてはいない。
分からなくても良いの。ただ、それを否定したり自分の型にはめようとするのは逆効果。
そうゆう絶望もあるのか〜と受け入れる事。

悩んでる人に対して『ん?そんなことで?』って思う事あるよな。私もたまにある。
でも人それぞれ顔面が違うように、ストレスのキャパも違うから、自分にとっては大した事ないような事でもある人にとっては凄く傷つく事なんだよね。だから自分のさじ加減で人の不幸を測るのは超ナンセンス。やめよ。

弱ってドン底にいるとき
こーしろあーしろ、君はこうだ
こうするべきだ これはよくない
って事を言うんじゃなくて
『へえ、ツライんだ悔しいんだ。カートコバーンと同じだね』←?
『その気持ちを絵にしてみたらー?』
『ところで、パンケーキ食べたくない?』
みたいなアプローチが案外心をかるーくしてくれるんだよ。私はね。パンケーキは大切だよ。悲しい時の方が私は甘いものが美味しい。

負の感情って疲れるし嫌になるけど
こーゆー感情がないと生まれないものは確実にあるしこーゆー感情の時しか見えないものもあるから無くしたくはない。
だからそんな私を受け入れて欲しい。

だれかのモヤモヤイライラたち、
そのままあり続けて、キラキラして欲しい。死ぬなよ。

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