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【ヤマシタトモコ『違国日記』】親密さを抱かせる国々

 最近身体の中で言葉がぶくぶく増えてどうしようもない。誰にも見せられない日記と、ある特定の友達だけに向けたいくつかの長いメッセージ、誰かに読んでほしくてぽこぽこつぶやくツイッター(この言葉を発するたびに毎回ざらっとした嫌な感触が伴うようになって面倒くさい。かといってXという気にもなれなくて何も気にならないふりをしてツイッターと言う)、といった私的な文章たちの量が尋常じゃなく増えた。なにを読んでいても、聞いていても、自分の言葉がぼこぼこ溢れるからそれの対処に追われて、ろくに捗らない。
 ただ、言葉にして切り分けたり距離を取ったりすることがほとんど全くできず、ひたすらひとつのおおきな塊として身体の中に溜まっていた時期に比べれば随分楽になった。Queen「Bohemian Rhapsody」の歌詞にある「I sometimes wish I'd never born at all」という箇所、当時はこれがまったく時々ではない日々だった。ここ数年は秋だけあの時期に戻ってしまったような感覚になるものの他の季節はなにかあっても大抵は言葉で切り分けて距離を取ってやりくりしている。秋はあの時期に戻ったような感覚になるといっても、ただちょっとリズムが掴めないだけで毎年少しずつ遠ざかっているような感覚もある。忘れていく。それが、一週間くらい前に『違国日記』という漫画を読んで、一番苦しかった高校二年生の秋に引き戻されてしまった。

 物語は事故で両親を亡くした十五歳の「朝」とその叔母で小説家の「槙生」が一緒に暮らすところから始まる。そして「朝」が中学を卒業するところから高校を卒業するまでの三年間が描かれている。私にとっての高校三年間はもがき苦しみながら自分の人生の舵は自分で握るんだという覚悟を手にした時期であった(『宇宙兄弟』の「「空」は誰のもんでもない。「人生」は自分のもんだ。人生はコントロールが効く」というヤンじいの言葉はお守りみたいに記憶している)。だから、言葉が足りていない「朝」の苦しみやその周りの友達の苦しみに触れて、あっという間に時が戻ってしまった。家族との衝突、漠然とした将来への不安、女性という立場、恋愛のこと、といった彼女たちの悩みどれもこれもに既視感があったが、同時に目を背けてきたものでもあった。なぜなら当時の私は「朝」以上に言葉が足りず、先に挙げた四つの悩みですら一つの大きな塊としてしか認識できず、まるで身動きが取れなかったからだ。本を読んだり音楽を聞いたりすることは、目を閉じ、耳を塞ぎ、思考を遮断する手段でもあった。そうやってやり過ごすことでどうにかあの時期を潜り抜けた。そうやって封をしてきた当時の苦しみは、彼女たちに触発されてあっという間によみがえってしまった。未だに言葉にならず見つめようとしただけで混乱してしまうことも多くあったけれど、今なら言葉にできることもあった。
 たまたま手に取ったのは私だったけれど、こういう内省の機会は作品に与えられたものだった。読んでよかった。ありがとうと思った。それは作者に対してかもしれないし、「朝」や「槙生」たちに対してかもしれないし、生活の中に蔓延って作品に親近感を抱かせた広告に対してかもしれないけれど、そういう、作品と直接的に関係がありそうなこと以外に対してもありがとうと思った。でもそれは言葉にしたらきっと消えてしまうくらい脆い。だから、茨木のり子の「その人の気圧のなかでしか 生きられぬ言葉もある」(「言いたくない言葉」より)という言葉には勇気をもらう。この言葉のおかげで、言ってしまってふいにすることなく、いられていることもある。

 「朝」は私からすれば過去の苦しみを身に纏ったような人物だった一方、「槙生」は根本的な性格が自分にすごく似ているような気がした。ぐずぐずぐずぐず考えるめんどうくささがあり、人付き合いは器用にはこなせない。これはこれで見ていて苦しかったけれど、彼女は私よりもはるかに成熟しているので頼もしくもあった。そんな彼女の素敵な言葉をひとつ引用する。

槙生「…朝 あなたが わたしの息苦しさを理解しないのと同じようにわたしもあなたのさみしさは理解できない。それは あなたとわたしが別の人間だから。…ないがしろにされたと感じたなら悪かった。だから……歩み寄ろう」
朝 「…わかり合えないのに?」
槙生「そう。わかり合えないから」

ヤマシタトモコ『違国日記』

 人と関わるときに「わかり合えないから歩み寄る」んだという感覚はどんどん強くなっていく。寄って行っていいのかわからなかったり勇気が出なかったりしてもたもたすることもあるけれど、歩み寄れればいいなと思う。でもできないときがあってもいいとも思う。つよく、やさしく、しなやかに、いられたらいい。

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