〈ウォーク左派について-スラヴォイ・ジジェックのエッセイを手掛かりに〉【改訂版】こたつぬこ(木下ちがや)

 
1,       ウォーク左派の衝撃
 
 2024年7月15日に、韓国のハンギョレ新聞電子版に掲載された、左派の思想家スラヴォイ・ジジェクのエッセイ「ポピュリスト右派とウォーク左派の共謀」の邦訳が発表されてから、ウォーク(woke:覚醒した、目覚めた)左派という言葉が急速に普及している(注1)。欧米ではウォーク左派という言葉は少なくともここ5年の間に使われるようになっていたが、日本でいま普及していく理由の一つは、先の都知事選において「左派」の行動と言説が脚光を浴びたことにある(もちろんこの脚光は賞賛ではなく、疑問の広がりを意味する)。思想家の東浩紀はジジェクのこのエッセイが発表された当日のツイートで以下のように評している。
 
「右も左も同じくらいヤバいよね、という何年も前から皆が指摘していることを、「最近ジジェクも同じことを言っているらしいぞ!」とか言って難しく語り始めている学者さんをみると、そういうところだとおもう」。
 
 東氏はジジェックの論考をうけて突如「自分はウォーク左派ではない」と豹変した政治学者や思想家を揶揄しているわけだが、これはまったく正しい。だが東氏にはもっと掘り下げていうべきことがあるはずだ。何年も前から指摘してきたのは東氏だけではなく、一握りの左派系の学者も指摘しつづけてきたことを、である。そしてその指摘に対し「キャンセルカルチャー」が発動され、沈黙を強いられてきたことを、である。例えば今年3月、KADOKAWAが米国の調査報道書「あの子もトランスジェンダーになった」の翻訳出版を告知したところ、「差別的である」との抗議を受けて刊行中止に追い込まれた。その後産経新聞社から出版されたが、同書の内容が「差別的である」との根拠はどこからも示されていない

 作家桐野夏生のいう「大衆的検閲」の広がりが言論の萎縮をうみ、ウォーク左派についての批判的言論の普及を妨げてきたのである(注2)。だが変化著しい日本の政治・社会状況のもとでは、もはやこの左派の概念を封じ込めるには無理が生じていた。そして都知事選は、その開放のトリガーを引いたのである。以下ではジジェクのウォーク左派の概念を解説するとともに、ウォーク左派が歴史的にどこから生まれたのか、また伝統的左翼との差異は何かを論じていきたい。
 
(注1)スラヴォイ・ジジェクのエッセイ「ポピュリスト右派とウォーク左派の共謀」
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/50598.html?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTAAAR2qqfT2aqmo4XEgLTC7HISUnlAlQDwaeZ_wu0t8RGpaWVdWqDQwkQbVzjE_aem_VBEVxI8KtB38RCOBGJbbJQ
(注2)桐野夏生「大衆的検閲について」『世界』。2023年2月号。https://x.com/sangituyama/status/1732617478734549099
 
2,ウォーク左派とは何か
 
 『ハンギョレ』紙のエッセイのなかで、ジジェクはウォーク左派についてこう論じている。
 
「ウォーク左派は、性的、人種的、経済的に排除され疎外された人たちの保護者を自任しながらも、きわめて抑圧的な超自我の体系を課すことによって、特定の人や立場を排除することを越え、それについての討論の可能性自体をなくしてしまう。表面上は多様性と包容を主張するが、これについての自分の定義に完全に同意しない人たちを容赦なく排除してしまう。「私たちの中には多様性と包容性に反対する人はいない。そのような人はすでに全員追放してしまったから」。最後に残った人食い人種を食べてしまったというジョークの極端なバージョンだ・ウォーク左派は抑圧的な体系を作り、個人に厳格な理想に完全に合致できないという罪悪感を絶えず抱かせる」。

 このジジェクの一文は、かねてからウォーク左派に関心があった人ならすんなり読めるであろう。だがこの説明不足の一文からでも、「多様性や包摂を叫びながらも、実際は他者の糾弾とキャンセルに明け暮れている左翼」のことを指していることが直感的にわかる人は数多くいるはずだ。なぜならわれわれはSNS上でそのような左派をすでに数多く目撃しているからだ。

 このジジェクの一文にある「抑圧的な超自我の体系」とは、何が差別なのか、あるいは何がヘイトにあたるかの客観的基準を示すことなく、「私(われわれ)が決める」と判断を独占し、他者を抑圧・支配する言説のことである。ミソジニー、トーンポリシング、マンスプレイニング...こうした外来語は本来男女の公正な表現の自由を守るためのものだったはずだが、ウォーク左派が超自我的に乱用したことで、表現の自由を抑圧する道具に成り果てている。これらの言葉を他者に投げかける際に「あなたの発言の〜が、〜と受け取られる可能性があるから、トーンポリシングにあたるかもしれない」と、根拠を示しロジカルに説明している場合はウォーク左翼にはあたらない。これは対話可能性をひらき、相互の訂正の機会を開いているからである。他方「これはトーンポリシングだ」と一方的に決めつけ、対話可能性を拒絶するのがウォーク左派の手法である。この手法は超自我的に他者をお手軽に攻撃し、封殺する快楽衝動に突き動かされており、キャンセルカルチャーを蔓延させ、閉塞感と「左派への忌避感」を増大させている。
 
3,ウォーク左翼の歴史的系譜
 
『ハンギョレ』紙のジジェックのエッセイは、実は今年5月に出版された同氏の著書『戦時から目覚めよ』(NHK出版)の要約である。だからきちんと論旨を読み取るには本書を手に取る他はない。だが本書においても「ウォーク左派が歴史的にどこから生まれたのか、また伝統的左翼との差異は何か」は論じられていない。ジジェック自身は説明しようと思えばできるだろうが、理解を深めるために著者(こたつぬこ)なりの整理をしたいと思う。なお著者の専門は政治史であり、本来なら思想史の人にきちんとした整理をやってほしい。

 伝統的左翼をカテゴライズするうえで真っ先に挙げられるのはイタリアの政治学者ノルベルト・ボッビオの定義である。「右とは何か」、「左とは何か」は尽きることなく現在も論争されているが、ボッビオは、左翼は「平等」指向、右翼は不平等(階層)指向と整理している(注1)。このようにボッビオが整理する「右と左」を横軸とし、さらに「リベラリズム」を縦軸に据えることで、ウォーク左翼の歴史的系譜を明らかにすることができる。 
 19世紀に端を発する伝統的なリベラルは「自由重視」であった。それに対して伝統的な左翼は「平等重視」であった。ただリベラルも左翼も啓蒙主義が出自である点は同じである。この伝統的リベラルと伝統的左翼が結びついたのが20世紀初頭の「社会自由主義」であり、西側ではこれが福祉国家の理念的なベースになる(これについてはハロルド・ラスキが専門である大井赤亥が詳しい)。他方で、伝統的リベラルを「ブルジョワ的」とみなし、平等の徹底を理想化したのが東側の共産主義である。

 このような思想的展開を経て、西欧や日本の共産主義左派が20世紀に強大な陣地を築いたのは、民主主義とリベラリズムを(党内規範ではなく)社会的規範として受容し、さらにナショナリズムを受け入れたからである。伝統的右翼が平等軽視で階層的なナショナリストであるのに対して、20世紀の伝統的左翼は平等重視のナショナリストに転換した。つまり20世紀に入り強化される国民主義にのっかることで大衆性を獲得したのである。さらに第二次大戦下では反ファシズム人民戦線の愛国主義を獲得し、20世紀半ばの隆盛を築くことになった。第二次大戦後は社会自由主義的な社会党と、共産主義政党が議会内左派の二大勢力を占めることになったのである。だがこの伝統的左翼は高度経済成長期に陰りをみせ、ウォーク左派が芽生えることになる。それは1968年のことである。
 
(注1)ノルベルト・ボッビオ、片桐薫訳、『右と左―政治的区別の意味と理由』1998年、お茶の水書房。
 
4、「1968」とウォーク左派の芽生え
 
 1968年に先進国を中心に世界的に広がった学生紛争の特徴は、第一に伝統的な左翼の基盤である労働組合運動が中心ではなく、経済成長と進学率の上昇により増大した学生中心の運動になったことである。第二に学生中心になったことで、社会運動の要求が「平等」という古典的要求よりも、「自由」「承認」欲求にバージョンが上がったことである。伝統的な左翼の社会的基盤は、19世紀のフリードリヒ・エンゲルスの名ルポルタージュ『イギリスの労働者階級の状態』に描かれてる下層労働者であった。彼らは身を守るために団結し、労働組合運動の下地をつくりあげていった。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームが述べたように、「貧者の公共性」こそが高度成長までの左翼の基盤であった(注1)。この左翼が変質するのが1968年である。世界システム論の社会学者ジョバンニ・アリギが述べたように、この運動は「自由主義の勝利」であった(注2)。つまり「集団的平等を基盤とした左翼」から、「個人主義と自由主義ベースの左翼」への転換がここで起きたのである。同時にこの時期、ウォーク左派の理論的支柱であるミッシェル・フーコーらポストモダン左翼のイデオローグが輩出したのは偶然ではない。

 そして1968年の学生運動という50年以上前の出来事から今日にかけての間にあったもっとも大きな思想的・社会的転換は新自由主義である。新自由主義は、保守派とリベラリズムを節合したものであり、社会自由主義以前の19世紀リベラリズムへの回帰を保守的に実践したものである。サッチャリズムがまさにそれであり、同時にリベラリズムもクリントン政権、ブレア政権と新自由主義を受容していく。ところが21世紀に入ったあたりから、「反グローバリズム」運動が右と左両方から台頭していく。アメリカではオバマ政権下、伝統的右派の「不平等」「階層性」をこっそりと抱きつつ、自立を掲げた草の根の相互扶助運動が「ティーパーティー運動」という名で台頭した。他方で左派の側でも、「99%の経済的公正」を掲げたオキュパイ運動が台頭した。これらの運動は2011年頃がピークであったが、著者(こたつぬこ)は2014年に、これらの運動についてジジェクを引用し、以下のような一文を書いている(注3)。
 
「このように、90年代の左翼は、第一に、伝統的な支持基盤が収縮することで民衆性を喪失したこと、第二に、曲がりになりにも近代主義的なマルクス主義が有した実践性と大衆性を、まるごと放棄してしまったことで、近代的な社会統合が揺らぐなかで生じた空白を、右翼ポピュリズムの側に明け渡していくことになった。まさに、スラヴォイ・ジジェクが述べるような「上流階級による搾取に反対する人民の動員と闘争という旧き左翼的な急進的スタンスをまさに形態において引き継いでいるのは、保守的でポピュリスト的な草の根運動なのだ」という倒錯した事態が、世紀末から世紀初頭にかけての政治を規定していくことになったのである(注4)」
 
 21世紀に入り、左翼の高学歴化はますますすすみ、リベラル化した左翼は庶民性を失っていく。ティーパーティー運動はまさに右派の庶民性回復の運動であり、それはかつては伝統的左翼がやっていたことなのである。2011年のオキュパイ運動はまさに、その左派の陣地を回復するための運動であった。ところが著者とジジェックがこのように左派の再生に期待を込めて論じて以後、2010年代を経てわれわれの眼前に広がるウォーク左派の運動は、99%どころか1%のための運動になり果てているのである!
 
(注1)エリック・ホブズボーム、大井由紀訳『20世紀の歴史』(上)、2023年、ちくま学芸文庫。
(注2)ジョバンニ・アリギ他、太田仁樹訳、『反システム運動』、1998年、大村書店。
(注3)木下ちがや『ポピュリズムと民意の政治学』、大月書店、2016年、204頁。
(注4)スラヴォイ・ジジェク『二〇一一――危うく夢見た一年』長原豊訳、航思社、2013年、92頁。 
 
5,ポピュリズム右派への貢献
 
 2010年代にウォーク左派が台頭したことで左派はナショナリズムと平等性を放棄した。その空白にポピュリズム右派が入り込んだ。つまり現在のポピュリズム右翼は戦前型のファシズムの回帰などではなく、20世紀半ばの左翼の陣地を右派的に占拠したものにほかならないのだ。つまり平等軽視のリベラルが新自由主義であるのに対して、平等軽視の左翼がウォーク左派なのである。ウォーク左翼は個人主義的なアイデンティティポリティクスを軸に据えたことで階級的公正を目指す闘争を放棄し、トマス・ピケティがいう高学歴「バラモン左翼」階級を基盤とし、労働者階級を右派に明け渡した。このように、伝統的左翼と現在のウォーク左翼は似て非なるものなのである。
 
 やや話がズレるが、ここで著者がこれまで普及させてきた「限界左翼」という言葉と、ウォーク左派の違いについて述べておく。「限界左翼」あるいは「限界右翼」は高齢者が中心である。伝統的左翼、右翼は労働組合やコミュニティを通じて実社会と結びつくことで政治性を獲得していた。だがバーチャル空間の浸透と労働組合やコミュニティの弱体化により、実社会から遊離し観念化したのが「限界系」である。他方ウォーク左派も労働組合やコミュニティの衰退がベースにあるのは同じだが、中年、若年層が中心であり、伝統的左翼を個人主義的なリベラリズムに基づくアイデンティティ政治に置き換えたものである。したがって限界左翼が伝統的左翼の劣化である一方で、ウォーク左派は伝統的左翼のネオリベラリズムによる解体から生まれたと要約できる。
 
 話を戻そう。われわれはウォーク左派の超自我的視点からポピュリスト右派をみてはならない。2011年オキュパイ運動に参加した左派の文化人類学者デビット・グレーバーは当時こう語っている。
 
「大多数のアメリカ人はシニカルではないと気づけば、右翼ポピュリズムの主張はより理解しやすくなる。それは、人種差別主義、性差別主義、同性愛嫌悪の下劣な囲いのなかから頻繁に姿を現す。だがその背後には、善をなす手段を奪われたことへの偽りのない憤りがある」(注1)。
 
ところが現在、ウォーク左派はこのグレーバーのアプローチとは真逆の手法をとり、右派ポピュリストの増大にせっせと貢献しているのである!

(注1)デビット・グレーバー、木下ちがや他訳、『デモクラシープロジェクト』、航思社、148-150頁。
 
6.「極中道」論について。
 
 「極中道」(extreme center)という言葉を、最近の左派が使い始めている。この言葉は2000年頃にイギリスの思想家タリク•アリが使ったものと記憶している。たしかに、言葉というものは時代状況に規定される。2000年頃は、反グローバリズム運動は新自由主義に対抗する左派主導であり、「極中道」は新自由主義化するリベラルに対抗する言説であった。ところが現在は、反グローバリズム運動は右派主導であり、アイデンティティポリティクスに傾斜した左派は「中道」どころか国民性をも失い、実社会から乖離している。この状況下で「極中道」言説は、左派に「統治権力を担えない役立たず」のイメージを持たせることにしかならない。

 1947年、アメリカの歴史家アーサーシュレジンガーJr.が「力強い中道」(vital center)という著書をあらわしている。ルーズベルト政権のニューディール政策を継承し、アメリカに社会民主主義を定着させることを狙ったこの本における中道とは、社会自由主義のことであった。 このように、「中道」は歴史的条件に意味が規定される。ポピュリズムが台頭し、伝統的保守、革新の衰退がすすみ、統治の危機が深刻化する現代政治において「力強い中道」のビジョンを描くことができるだろうかが問われている。これを踏まえてさらに論じると、ウォーク左派批判には、リベラル系と左派系のニ系列がある。リベラル系の代表的な論客はフランシス・フクヤマとマーク・リラである(注1)。かれらは「リベラリズムの原点回帰」すなわち社会自由主義的な福祉国家の再建をオルタナティブに据えている。他方、左派のジジェクは、「左派の原点回帰」すなわち資本家対労働者の闘争線を、ポピュリズム右派から奪還することをオルタナティブに据えている。これらは20世紀のリベラル、左派の原点にいったん回帰することでグローバル化した21世紀の対抗軸を確立しようというものである。もちろんこれらのオルタナティブは論争的なものであるが、ウォーク批判左派が単なる中道主義ではないことは明確である。
 
(注1)        マーク・リラ、「アイデンティティ・リベラリズムの終焉」、2016年、邦訳は以下。https://x.com/sangituyama/status/1813749566531129677
 
7、おわりに
 
 ジジェックが述べる通り、ポピュリスト右派の核は「不平等」「階層性」であり、ナショナリズムとノスタルジーを塗りたくっただけガラクタに過ぎない。他方で「自由」「平等」「友愛」という伝統的左派とリベラルの理念と実践の回復は、ウォーク左派のなかからは到底不可能である。われわれに問われているのは目覚めることではなく、歴史的経験に根差した思想と実践を取り戻すことである。

 これからウォーク左派についてはさまざまな議論が交わされていくだろう。自由な議論のなかからこそ、われわれがとるべき道筋はみえてくる。その材料の一端にこの論文と、この論文への建設的な批判が加わることを願う。
 
 
 
 
 
 

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