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7|猪を捌く-2 身体の学びの領域、流れ

内臓を取り出したら、次は、アンコウの吊るし切りみたいに、上から吊るしての作業になる。寝かせてやるよりもそのほうがやり易いからだと思う。

両足のアキレス腱にフックのついたハンガーをかけて、脚立に滑車をかけて引き上げる。足首のところにぐるりと切り込みをいれて、そこから皮を剥いでいく。

皮を剥ぐ。この言葉に、うわん。て印象を持つとしたら、自分の身に置き換えるからだと思う。だから、文字や言葉だと心に負担が生じるのだけど、現実に猪と対峙すると、どうしたらうまく早く剥げるんだろうといった、物と手の関係性が前に出てくるので、言葉が想起させるものとは違う現実が立ち上がるのを感じる。

冬の猪は秋に木の実をたくさん食べて蓄えているから、脂肪の量がものすごい。厚いところでは10cmくらいありそうな、脂肪にしっかり結びついた皮を、ナイフで剥ぎ取っていく。できるだけ身に脂肪が残るように、丁寧に、細かく。

見ているとやりたくなって、やらせてもらう。思った以上に難しい。左手でミシミシと皮を剥く方向に力を入れながら、右手に持ったナイフで、脂肪と皮を離していく。脂肪を切ると早いけれど、それではもったいないから、できるだけキワを狙う。とても力が必要なので、だんだん左手に力が入らなくなっていく。どうやっても皮が動いてくれないポイントがあったりして、情けないほど短時間しかできなかった。

この時には大家さんと私の他に2人、大家さんの知人友人が手伝いに来ていて、それでも皮を剥ぐのに2時間くらいかかった。大家さんはさすがに、うまくて早い。一度自分がやってみると、うまさがわかる。

皮が剥がれたら、次は肉の切り分けに進んでいく。このあたりはもう手が出せず、ただただ見せてもらうだけ。

今日の分け前と、大家さんが肉の塊を次々にくれる。持参したボウルがずっしり重くなっていく。スーパーではプラトレイなしの買い物が想像できないけど、これならボウルと袋がひとつあれば良い。

血の匂いを嗅ぎつけたのか、茂みの向こうにタヌキが来ていた。空ではトンビが興奮してぴょーいぴょーい鳴きながら、ぐるぐる旋回していた。

桜色の脂肪がとられて、どんどん深い赤みの肉が現れる。肉って、筋肉なんだ。体の中心には各種臓器があって、その容量はかなり大きく、脂肪もたくさんついていて、骨もあるから、筋肉の割合は3~4割くらいだろうか。肉を食べるというのは、筋肉を食べてるんだ。肉は命まるごと肉なわけじゃない…。

重い気持ちになる。でも、肉ってそういうことなのかと知った、深いところで腑に落ちたことには、なにか獲得するものが確実にあった。そして、部位のこと、どこをどうしたらどうなるのか、骨と筋肉等々の仕組みも、もっと知りたいと思った。

解体が始まると、そこに広がるのは職人的領域だ。あるひとつの、そのものならではの「ものの性質」をもったものと、手と身体が向き合う、身体の学びの領域。板前さんが魚を捌く手つきに見とれるのと同じ、上手い人はさも簡単そうに、すすすーっと魚の皮を剥いで、骨に身を残さずに3枚に捌いていく、それと同じ領域。

しかし、日本には、魚を捌く人への差別意識はないのに、肉を捌く人への差別意識があるという。明らかな差別意識を目の当たりにしたことはないが、魚を捌くことに比べた屠畜への抵抗感は確かにあると思う。たとえばこの話をするとして、魚をめぐる経験よりも人を選ぶ感覚は確かにある。

ちょうどこの日の夜、Eテレ『バリバラ』のテーマが部落差別だった。部落と直接関係するものではないが、東京都中央卸売市場食肉市場のwebサイトによると、屠畜に関する差別・偏見はいまだに根強いという。

これも生活の既成化、効率化や分業化の弊害かもしれない。皆で獲って、皆で捌く、日常の中にある誰もがやることなら、差別しようがない。

肉の塊が目の前にある。わっほーいご馳走が食べられる〜!早くわけてっ。それをやってくれる人を差別することにはならないだろうに、なっていった(る)のは、日本に国家が誕生して以降の権力の統治のあり方や、肉食を禁じた宗教、肉以外の食べ物も充実していた農耕と自然環境、人の生活と自然との向き合い方等々をめぐる歴史の綾(網野善彦『日本の歴史を読み直す』『中世の非人と遊女』『東と西の語る日本の歴史』、鯖田豊之『肉食の思想』、内澤旬子『世界屠畜紀行』など参照)と、人類史上初の飽食の時代を迎えて、食べ物がどこからくるのか、食べるって何なのか、よくわからなくなってることと、とにかく複雑なあれこれがあるとして、

ひとまずそれを置いて、何も考えず肉と向き合えば、食べたら力が湧いてくるおいしいもので、捌かないと食べられないんだからそら捌くよっていう、差別の意味がわからない、素の感覚が沸いてくる。

人間社会をペリペリめくれば、人間と他の生物種との奪い合いかつ共生という層に、動物としての欲望を孕んだ私たちの身体がある。

生きてることは「正しく」はない。他のいきものの命を奪わないと、この身体は生命を維持できない。しかし生きてるだけで罪深いかというと、そんなこともなくて、たとえば私の身体では数でいうと私の細胞よりもずっと多くの微生物が生きていて、私の体は微生物が生きる場を提供していて、同時に微生物に助けられてもいる、生きてるだけで、この身体がすでに共生の場になっている。

食べるというのは、大きな循環のなかにある一つの点で、猪は「犠牲になってくれた」わけでもなくて、お互いに大きな流れの中にあって、私は猪をいただいて、取り込んで、猪は私の一部になって、私もいつか他のものの一部になって、そういう流れの。流れをもっと強く感じられたら。




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