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色欲とアート

表現の自由はどこまで自由であるべきなのか。

今日もエバはアダムを誘惑している。

人は色欲に翻弄される生き物なのだろうか。

クリムトの接吻は何故あれほどまで人々を魅了するのだろうか。

ピカソの作品はモデルとなる女性が変わる度に、何故それぞれ全く異質な美しさを放つのか。

色欲は7つの大罪の中でも最も私たちにとって身近で、美術に触れる時は誰しも避けては通れない欲求の一つなのかもしれない。
しかしながら、色欲を〝罪〟と捉えるためには
2つの観点から人の感情を整理する必要があると私は考えている。

1つは人間目線。そしてもう1つは神目線だ。
※(これから述べる神目線は、西洋思想の観点に立つものである。)

①人間目線
まず私たちが一般的に捉える色欲は性愛を意味するだろう。
エロスという言葉を良く聞くが、元来は肉体的な愛から精神的な愛までを含む包括的な概念だった。しかし、近年では肉体的愛、性愛の意味で使われる。

エロスは人間が生きていくための源である。この生命力が古いタブーや束縛を脱して働く時、真の解放に向かうと言われている。
しかしながら、エロスとポルノ(あるいは性的娯楽作品)との違いを区別することは人間目線では難しい。ヌード1つにしても、性的含意を除外した「ヌード」と性愛的含意を含む「ネイキッド」に分けられている。【ケネス・クラーク「ザ・ヌード」より】
作品から起こされる美学的な感情と官能的な感情は互いに独立したもので切り離せるものかどうか。
歴史の中で人々はその論点(芸術かわいせつ物か)に翻弄され様々な裁判や事件が発生してきた。
エゴンシーレもそんな時代に翻弄されたアーティストの一人だったのかもしれない。【映画 エゴンシーレ死と乙女より】

どうだろう。ここまで読んでくれたあなたには、もはやこのトピックが終わりのない論争に思えるのではないだろうか。
そして、あなたがもしヌードを描き、裸体を見つめ、なおかつその創造的な活動に欲情しているならば、罪悪感にとらわれて途方にくれるのかもしれない。あなたが作品にどんな意味を込めたいか。もし、それがポルノグラフィではないのであれば、
神の意図を知る必要がある。それは自分自身も含め、美術に従事し、人々に芸術を発信していく以上念頭に置くべき課題なのかもしれない。
ここから先が神目線だ。

②神目線
旧約聖書の『創世記』は、天地創造、アダムとイブの禁断の果実の取得、失楽園、そしてカインによるアベルの殺害…
神の恩けいを失った結果、嫉妬、闘争、離反、暴力への第2の堕落と、立て続けに啓示されていく。
禁断の果実を食べたアダムとエバに、神が「あなたはどこにいるのか」と尋ねた時、アダムは答えた。

「園の中であなたの歩まれる音を聞き、私は裸だったので恐れて身を隠したのです。」

アダムはこの時、永遠の社会的問いかけもしていたのだ。

創世記3章7節で「2人の目が開け、自分たちが裸であることが分かったので、いちじくの葉を綴り合せ腰に巻いた。」とある。

何故隠したのか。

これは神の園で無垢に暮らしていた人に罪が入った瞬間を意味している。
裸であることの羞恥心や恐れは本来神の意図ではなかった。
だとすれば、裸体を美しいと思い感じたままに表現する行為は神が人間を愛しているのと同じに、肯定されるべきではないのか。

しかしここに悪魔のトラップがある。
これでもか、これでもか、もっと満たされたいのだろう?
とハテナマークを人間に置いてくる。
悪魔の化身とされる蛇がエバに善悪の実をたべろと誘惑した時と同じような状況は、地上で暮らす私たちの生活の中に、ごく自然に作りだされる。

「人が誘惑に陥るのは、それぞれ欲に引かれ誘われるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」(ヤコブの手紙1:14-15)

では私たちはどうしたらこの欲から解き放たれるのか。
私は以前自身のウェブサイトギャラリーに、描いたヌードを投稿した時に教会の兄弟に忠告を受けた。その時に送られてきた聖句がこれだ。

「ただ、あなたがたのこの自由な態度が弱い人々を罪に誘うことにならないように気をつけなさい。」
(第1コリント8:9)

つまり神は私たちが純潔で聖霊を頼りにして自身をコントロールできるように望んでいるのだ。
描かれたヌードが芸術かわいせつ物か、という区別は受け取る側の心理に大きく関係するが、聖書に提示された性的な純潔と欲望に対しての原則を視野に入れるならば、私たちの芸術は人を罪に誘うものにはならないということである。

そうはいっても自分でコントロールできないのが人間だ。
ハロルド・マズローが提示した欲求のピラミッドでは、色欲は人が生きていく上で1番の土台となる欲求に位置している。それは食べたり、飲んだり、眠ったり、これができないとなるとその時点で死を意味するほどの動物的な欲求である。
つまりこれは誰かに満たし続けてもらわなければ自分ではどうにもならない欲求なのである。

この人間の欲求と神の超越された性に対する考え方のハザマで私たちは一生ハテナマークと付き合うのだろう。

私自身は「この先ヌードをどのように描いていきたい?」と問われたらこう答える。

「生まれたばかりのありのままの姿を」と。
丸裸になれば大人も赤ん坊のようになる。
想像してみてほしい。風呂上がりに幼い子どもが裸ではしゃぎ駆け回る姿を。
あれほどまで開放感に満ち溢れた姿があるだろうか。まだ人に罪が入る前、エデンの園ではそのような光景が見られたのだろうか。無垢で、ただ父なる神の愛を全身で受けた純粋世界に住む幼子のようなアダムとエバを私は思い浮かべる。

私は神が色欲を肯定している、とみだりに天を差して唱えない。
アートに逃げて姦淫を正当化することも否定することもしない。
またそのような人達を軽蔑することもしない。
結論この色欲の先によい解決法も答えもない。

それは神のみぞ知る世界で、私たちはそこに決して立ち入ることはできない。
私たちはただ神の御手の中にある。

私たちにできることは神の意図を探り、ただ神に聞き従うこと。
「しもべは聞いております。」と。

嘆く必要はない。
神の恵を受け取りたいと祈る人に災いはない。
神は時に人が打ち砕かれていくことを望まれる。
打ち砕かれた先に神の御心を知るからだ。
神との会話を楽しむように手を動かし、身体をうごかし、表現できる人は幸いだ。

アートが行き着く先は、人間が神との交わりを喜ぶことなのだから。

                 米光智恵

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