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バッハ: 《無伴奏チェロ組曲》 第1番 BWV 1007 〈プレリュード〉

画家の没後15年の展覧会で演奏していただきたいのです。美術館のロビーなのでピアノがなく、チェロの無伴奏でお願いしたいのです。チェリストを担当していた私に、そう問い合わせがあった後、届いたのが画家・有元利夫の資料だった。

有元利夫、名前を聞いただけではさっぱりわからなかったが、中世のフレスコ画のような、時間がとまったような、首と腕の太い女の人の絵を見て、この人の絵を知っているとすぐ気がついた。もう何年も見ていなかったが、家にあったバッハ全集のカセットテープの表紙、その絵と同じだった。

実家のリビングの本棚の一番下の引き出しには、ヴァイオリンの練習用にと母がそろえたバッハ、モーツァルト、その他クラシックの名曲全集のカセットテープがあった。レッスン中の曲があれば、ここから出して聞くことになっていたのだ。バッハ全集は10巻ほどあったか、当時は何も知らなかったが、つまりその全集の表紙全てが有元利夫だったということになる。

それは、どれも不思議な絵だった。塗り込んだ壁のような背景に女の人がひとり、しーんとした部屋でテーブルを前に座っている。袋のようなものをはたいていたり、そこに花びらが降っていたり、人物が浮いていたりする。どれも首と腕が太くて手が小さい。女の人がいつもひとり、静かな絵だった。

思いがけない再会は嬉しいものだ。その後、没後25年の回顧展には嬉々として向かった。図録を読み返してみると、有元利夫の花びらや人物の浮遊感は、「天にも登る気持ち」なのだそう。いつもひとりなのは、「二人以上の人物が登場すると、その人物間には必ず関係が出てくる。」から「関係というのはその「場」とそこに居る人とのものだけでいいんじゃないか。居る者同士の関係はもういらない気がします」と記されていた。

ひとりなのに決して寂しそうには見えないのは、そういうことだったのだなと腑に落ちる。むしろ、時間を越えるという陶酔感に漂えるのは、ひとりとその場が結ばれるときだけだもの。

「絵をかくことでどれくらい自分の自意識から離れることができるか、いつもそう思いながらキャンパスに向かう。」というのも素敵だ。個性なんてちっぽけなものから離れて、個人の色々もすっかりさっぱりなくして、天空に漂えたらどんなにいいだろう。

もうひとつおもしろいなと思ったのは、問題は脚で、脚を書いてしまうと何をしているのかわかってしまう、それでスカートで隠してしまおうと思ったというくだりだった。それは手をはっきり描かないのと同じ理由で、だから手はだいたい棒くいのようになっているという。何をしているかは、さして重要ではないなんて、とてもおもしろい。何をしているかではなくて、何と結ばれているか、何に満たされるか、何で満たされることを望んでいるか。

有元利夫はリコーダーやバロック音楽を愛し、作品名には「フーガ」や「サラバン」などの音楽用語も多い。没後25年の回顧展では「厳格なカノン」がポスターになっていた。カノンも音楽用語だ。天まで続いているようにも見えるはしごを昇る女の人。緑のカーテンに隠れて途中のはしごと手は見えない。はしごは、最後まで続いているのだろうか、足場がいくつか外れているのだろうか。女の人の顔はいつになく険しい。

「遠くにある理想の姿は見えている。でも、一歩先が見えないのだ。そして遠くはどんどんはっきりして行くし、足元はどんどん暗くなる」

天空とはつながっているのか、結ばれているのか、知るよしもない。「天にも昇るような気持ち」だけが本当だ。

38歳で急逝した有元利夫の誕生日は9月23日。回顧展は7−9月に行われることが多かったようだ。昨年2020年夏に有元利夫没後35年の大きな回顧展が予定されていたが、コロナ・ウィルス感染拡大の影響で中止になってしまったのが残念だった。

没後35年有元利夫展 花降る空の旋律 2020.6.25 - 8.30 (中止)https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/20_arimoto/


長谷川陽子(チェロ) 

バッハ 《無伴奏チェロ組曲》 第1番 BWV 1007 〈プレリュード〉 

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有元利夫<厳格なカノン>

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没後25年有元利夫展 天空の音楽 

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子供の頃、家にあったバッハ全集のカセットテープ

バッハの無伴奏チェロ組曲のカセット

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