推しになりたくて

推しのことが好きすぎて、ときどき推しになりたくなってしまう。

わたしの推しは、韓国の13人組アイドルグループ SEVENTEENのメインボーカル・ドギョム。すごく簡単に紹介してしまうと、歌がめちゃめちゃうまくて、まっすぐで、笑顔がステキで、陽だまりのようにあたたかい人だ。


推しの人格はそのままで推しになるのか、わたしの人格を持って推しになるのか、どっちがいいかな……こんなあほみたいなことをまじめに考える。


推しの人格のまま推しになるということは、日々をストイックに生きるアイドルになるということであって、わたしのような怠惰な人間にとってはつらい毎日を送ることになるし(←すでにわたしの人格入ってきてる)、何よりわたしのこの感情をともなわずに推し本人になったところでどうすればいい………?  かといって、わたしの人格で推しになってしまったら、毎日朝から晩まで、寝ても覚めても自撮りして終わってしまうような気もする。

きっと「推しになりたい」と思うわたしの心は、わたしの人格を持った状態で推しになりたがっている。要は、こんなに好きでも想いが届くこともないし、一緒にいることもできないのだから、もういっそのこと本人になって一日中好きな男の顔を鏡で眺めていたいという、ただの欲望としての「推しになりたい」だから………もう書きながら何を書いているのかわからなくなってきた。



それはさておき、最近ずっとドギョムにとって「歌うこと」のような存在をわたしの中にも見つけられないものかなぁ?と考えている。もう己のライフイベントがほぼ終わったようなタイミングで何を今さらと思うけど、だからこそ改めて人生について思うことがあり、真剣に考えている。

わたしから見たドギョムにとって「歌うこと」は、「好きで、得意で、でもスランプに陥ることもあって、悔しくて、つらくて、乗り越えられたらうれしくて、それでもなかなか満足できることはなくて、でも、ずっと続けていたいもの」。もちろんただの想像だけど、そんなイメージ。わたしの中にそのような位置づけのものがあるだろうか?


そんなことを考えていると、10年近く前に「もうやりきった!」と思って辞めた仕事のことを思い出す。好きで得意だと思っていたけど、何度も壁にぶち当たっているうちに、好きじゃなくなり、疲れて辞めてしまった仕事。でも、本当はやりきったなんて思っていなくて、逃げただけだった。あのときもう少し頑張れていたら、もっともっとその道を楽しく歩んでいられたかもしれないという思いが、何度も何度も亡霊のように頭をよぎる。

それと同時に、悔しさとつらさと向き合いながら、いくつもの“当たり前”を諦めて、努力し続け、ファンのためにステージ上で輝くドギョムの姿が頭に浮かんで、また「好き」の感情を幾重にも積み上げてしまう。


わたしはドギョムの顔が宇宙でいちばん好きだけれど、顔だけが好きなわけじゃない。人としての振る舞いもアイドルとしての生き方も大好きだし、歌手としてたゆまぬ努力を続ける姿勢も好きだ。憧れる。大した挫折も経験せずに、自分を勝手に追い込んで途中棄権してしまったわたしは、人としてやさしくまっすぐに、アイドルとして努力を惜しまないドギョムのように生きてみたいのかもしれない。


あぁ……そっか。わたしはやっぱりドギョムになりたいんだ。


ドギョムの人格のままドギョムになろうが、わたしの人格でドギョムになろうがもうどっちでもいいや。とにかくドギョムになりたい。どんな人格でドギョムになってもがんばります(?)。来世ではドギョムと付き合う予定だったけど、ドギョムに本人になるのもいいな。来世、たのしみだな〜。

来世の前に、現世でも過去に置いてきた「好きで得意だったこと」をもう一度がんばってみようかなと思い始めている。こんな気持ちにさせてくれるドギョムの存在が何よりもありがたい。今日もドギョムにありがとう。

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