【乱舞祭2022】あの舟は棺であり遺骨であり、これは将門公から肉体をお返しいただく儀式であり、そして鶴丸国永はあちらとこちらを反復横跳びしている。

※ネタバレ注意

乱舞祭2022の意味

ディレイ配信を見て、これはやはり将門公の鎮魂の儀式であるなぁと思ったので改めてまとめておきます。

鎮魂の儀式であるというのは、鶴丸がしきりに「これは”遊び”だ」と言っていることからも。
彼ら刀剣男士、付喪神。つまり「神遊び」とは「神楽」のことであり、神楽は鎮魂に伴うものだとも考えられているので。

心覚において「あの子」が私たち審神者の象徴のような存在であったことから、あの子=うつつ、こちら側の象徴なのではと思う。

そして、死者であり本来「あちら側」にいるべき将門公は、あの世とこの世のはざまに留まっている。
どうして?それは「東京心覚」という公演のために、将門公の魂をお呼びしたから。

あの世とこの世の間の川であり海。その真ん中で留まっている、将門公の乗った舟。
その船を動かすのは刀剣男士だ。

「舟よゆけ いま もやいを解こう」

「結びの響、始まりの音」において、「結び」とは終わりという意味だ。
刀の時代の終わり、結び。

そして心覚で語られる「ほころび」が「始まり」という意味だったことを考えると、「もやいを解く」とは舟を動かすことであり、そして紐をほどくことから「始まり」「止まっていたものを動かすとき」という意味とも考えられる。

止まっていたものとは、将門公の魂。
本来あちら側の存在のはずなのにあちらとこちらの間で留まっていた「将門公」、こちらの象徴である「あの子」、そして神であり人が作ったモノであるあちらとこちらの橋渡し役「刀剣男士」が三位一体となって混ざりあうことで「祭り」となり、将門公を「祀り」、そしているべき場所へお返しする。それがこの祭りの意味。

榎本武明は、将門公に帰るべき場所を伝える案内人だ。

仏教において、死者が帰るべき方角は北とされている。
なので、「北」を象徴する人物であり、かつ、幕末と明治、刀の時代の終わりと次の時代の始まりをつないで見届けた榎本武明があちらへの案内人となる。
将門公は榎本武明と出会い帰るべき場所を知り、「もう迷わない」で帰ることができた。
仏教における「北」は、決して執着地点ではない。十二支においては始まりの「子(ね)」が北にあたり、北は「始まり」の意味も持つ。
将門公の魂は榎本武明に案内されて「北へ」帰ることであるべき場所へ戻り、そして「その先」へ進む。

と、いうお話が真剣乱舞祭2022だったと思う。

小さな小舟は、舟であり、棺であり、そして遺骨なのではないか。

ここからはさらに個人的な解釈。
登場する「舟」について。

舞台セットとしての舟は2つ出てくる。
ひとつは、冒頭で「あの子」が乗り、鶴丸が乗っていた小舟。
もうひとつは、将門公が乗って出てきた舟。これは(帆があるかないかの違いがあるけれど)榎本武明が持って(連れて?)きた舟と同じもの。

見比べると、将門公が乗ってきた舟はわりと綺麗で新しそうなのに対し、「あの子」と鶴丸が乗っていた舟はなんだか古ぼけている。
躯体の木はところどころ朽ちているような気がするし、かかっている白い布は裾のほうが破れたりしている。布には蔦が這っていて自然に還りかけている。そういう舟。
どうして将門公が乗っていた舟が新しく、「あの子」と鶴丸が乗っていた舟は古ぼけているのだろうか。

仮説。
将門公が乗っていた舟は「今」、”この将門公”の魂の乗り物。
つまり、川隅美慎くんの「肉体」を表しているのではないか。だから「新しい」のではないか。
だとすると「あの子」と鶴丸の乗っていた小舟は将門公の魂が本来あるべき場所であり、そして自然に還りかけるほど長らく魂が乗っていた乗りもの。
つまり、将門公の「遺骨」。

「あの子」は我々審神者の象徴であり、「うつつ」の象徴だと私は考えている。
だとすると納得がいく。将門公の遺骨は今まさにこちら側、「うつつ」にあるからだ。
しかし今、将門公の魂は別の乗り物に乗っていて、遺骨は中身がカラだ。
だから、持ってきた。あちらとこちらの間で迷っている将門公の魂を入れて、元の場所に戻すために。

遺骨はどこから持ってきた?
当然、将門公の墓から。
誰が?
もちろん、鶴丸国永が。だから彼は、小舟に乗ってきた。

これ以上の適任はいないだろう。
一度墓に入り、そして持ち出された刀。
まごうことなき、こちらとあちらの往復。鶴丸はそれをすでにしたことがある。
だから将門公の遺骨を、うつつの象徴であるあの子とともに連れてきた。

そうして、こちらとあちらが混ざる。
あの子と将門公と水心子。3つが混ざって踊り、祭りは続く。

将門公は愉快であった祭りに満足し、「また会おう」と一時の別れを約束した。
そうして将門公が帰っていった方向から(細かく見ると将門公は舞台中心の奈落からハケ、小舟は舞台下手から出てきたので違うんだけど、まあでもそれは舞台セットの関係だと解釈したい)小舟が現れる。将門公の魂を乗せて。

そうして正しく、もとの乗り物、自身の「遺骨」へ戻った将門公。
魂の乗った遺骨であり、棺である舟を先導して鶴丸がゆく。

鶴丸が舟を先導するシーン。
バックに映っているのは、おそらく朝焼けだろう。
朝焼け、太陽に向かって鶴丸は将門公の乗ったフネを導いた。

日本には、死者を天界へ運ぶ際、死者の魂をフネに乗せ、鳥に案内させて太陽のもと来世に導くという思想がある。

 to the future。未来へ、その先へ。

将門公の魂を鎮めることは、将門公から川隅美慎くんの肉体をお返しいただくこと、でもある

この儀式は将門公の鎮魂の儀式であり、
そして、将門公の魂から「川隅美慎くんの肉体をお返しいただく」儀式だったのではないか。

役に成る、とは一種の魂の受肉だと思う。それが実在し、さらにはその霊魂の存在が強く信じられていた人の役ならなおさらだ。
そんな大役を背負った川隅美慎くんの肉体を、将門公にお返しいただく。これはそういう儀式なのではないか。

そしてその儀式に数か月かけなけばならないほど、やはり将門公の力はすさまじい。そういう敬意の表し方で将門公を敬うのだとしたら、ミュージカル刀剣乱舞はやはりどこまでも真剣に将門公に向き合っているのだと思う。

鶴丸国永の役目と、瞼の裏に映る残像

ここからはさらにさらに個人的な解釈の話であり、もはや妄言。

最後、小舟を先導したあとの鶴丸は実に満足そうな、幸せそうな顔をしている。
「瞼の裏でゆれる残像」それを実にいとおしそうに幸せそうに眺めている。

一体何を見ているのだろう。その瞼に映る残像はどんな景色なんだろう。

前述の解釈の通りだとすると、
鶴丸国永は一度将門公の墓から持ってきた遺骨を、きちんと自分が先導してあるべき場所、墓へ返したことになる。

これは私が「鶴丸国永は自身が墓から持ち出されたことへ憤りがあり、墓へ執着があるのではないか?」とずっと考えていた結果なのだが。
あの鶴丸国永は、一度墓から持ち出された遺骨が無事に墓へ帰ることを思って「幸せそうな」顔をしているのではないだろうか。

そう導けた自分を誇らしく思うとともに、
墓へ戻ることができた遺骨のことを思ってあんなに満足気な顔をしていたのではないだろうか。

だとしたら。
あの鶴丸の瞼の裏に映る残像は、暗く暗く静かな、墓の中の風景なのかもしれない。


参考:船棺葬送に見る刳舟・船棺起源と舟・舟
file:///C:/Users/chiki/Downloads/2010000007.pdf


「あの子」の解釈についてなど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?