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朗読劇「銀河鉄道のなかで」が素晴らしく好きでしたという感想

脈略のない吐き出し失礼!
結論としては「全てにおいて最高の舞台でした。特に脚本が大好き。ありがとう!!!」です。

【ハルちゃん・えみつんと、ほのかちゃんについて】

太宰と宮沢賢治を描いている、と見せかけてあの3人の女子高生の関係性とそれからが作品のメインに感じたのでまずその話からするんですけど、身近な人が亡くなった時の後悔というか、死因についてだけじゃなく葬式の時の立ち振る舞いとかを後になって「私ひどいのでは?」と悩むところにすごくリアリティを感じて、あ〜〜分かる…となった(私も一親等が急逝しているので)。そしてその悩みや後悔を解決する明確な答えや救い(たとえば「それでもほのかは怒らない」とか)を出すわけじゃなく、その気持ちを生きている人間の間で共有することで前に進める、というところが好きだった。共感するし。どうしたって過去は変えられないし死んだ人の気持ちはどうあっても分からないので、あとは時々吐き出して気持ちを整理しつつ時間が解決するのを待つしかないし、その解決の仕方をあの2人ができていたので良かったなぁと思った。綺麗事にしないというか、綺麗におさめすぎない感じにリアリティを感じてすごく好きだったなぁ。言わせようと思えばほのかに「私は自分の死を悔やんでないし、えみつんのことを恨んでないよ」と言わせることもできただろうけど、それをしないところが好きだった。
最後の2人が「ご飯行こうよ」で終わるところも素敵ね…生きていたらご飯を食べなきゃね。ご飯食べて人間生きていくんだから。「ご飯」という生者の象徴の行為を、最初の2人は一緒に出来なかったけど最後は一緒にご飯行こう、となるの、お互い自分が生きていることを肯定できたということの暗喩なのかなぁと思って、素晴らしいな〜〜と思った。素敵な脚本だ…
役者さん2人も素敵だったなぁ。ハルちゃん、明るくて空気読まないように見えるけど実は人一倍気を遣ってて自分の立ち振る舞いに敏感で本音を話せない、というキャラクターが声の抑揚とかから伝わってくるのすごいな〜と思った。ジョバンニと重ねることで環境や生い立ちを推測させるのも良かったなぁ…まあこの推察は、ハルちゃんにしてみればたぶんされたくない推察なんだろうけど。えみつんはほんとにお顔が可愛かったわね…!最初、クラスで浮いてる原因が「アイドル活動してだけどそこでスキャンダルがあって干されたから」みたいな理由かしら?と邪推してしまうほど可愛かった。天使みたいにお顔の可愛い子がツンツンしてるの個人的に好きなので、良〜〜!と思って見てましたし、最後の笑顔も可愛かった。

【宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が昔から嫌いな私を肯定してくれる優しさと、否定させない理性に救われたという話】

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」って日本で学校教育受けてたら小学生時に必ず音読させられるしなんなら覚えさせられる(私は暗記するテストがあった記憶がある)と思うんだけど、私はその当時からめちゃくちゃ嫌いというか、吐き気がするぜ…って感じだった。その苦手意識はうっすらとずっとあってそのせいで宮沢賢治の他作品も読めてない(注文の多い料理店くらいは読んだが)んだけど、久しぶりに雨ニモマケズを聞いてやっぱり嫌いだわ〜〜吐き気がするわ!!と思った。
他人の幸せこそ自分の幸せ、という自分個人への意識の薄さ、自他境界線の無さがもう気持ち悪いというか苦手でしょうがない。
と、いう前提のもと今回の舞台が素晴らしく好きだったのは、その「宮沢賢治の価値観を気持ち悪いぜと思う人間の気持ち」を否定しないでいてくれるから。太宰がこちら側に立ってくれるおかげで、必要以上に「気持ち悪い」と思わずにすむ。だって太宰治が私の感情を私よりはるかに雄弁に言語化してくれるから。だから私は太宰のセリフに「そうそう!」と思うだけで済む。そこがめちゃくちゃ優しいし、モヤモヤせずにすむ脚本だった。
その上で宮沢賢治の価値観を妹が全肯定する。けどそれは太宰の価値観の否定ではなく、あくまで宮沢賢治の肯定であるので、宮沢賢治を肯定されたからといって変にモヤッとしない。だって人の価値観は人それぞれだから。きっと太宰は最終結核で病死したところで言うことは変わらないし(もちろん太宰治という作家の人生というコンテンツの終わりが入水自殺という美しさは損なわれてしまうが)、今回の劇中では宮沢賢治妹の「もったいない」にひとつの納得をして戻っていくが、本質的には死ぬこと、生きるのを終わらせることをもったいないとは思ってない。おそらく太宰は、というかこれは私の価値観だが「無意味でつまらない生を続けることで、これまでがさらに無意味になることのほうがよほどもったいない」と感じる(だろう)。
その太宰と宮沢賢治の両極端にもあるような作家性、そして価値観をどちらも否定せず肯定していくという姿勢、そしてそれをちゃんと伝えてくれる脚本のバランスがまじで素晴らしいし美しいな〜〜と思った。そのスタンスなのはおそらく脚本を書いた方が太宰の作品も宮沢賢治の作品もどちらも否定しないというフラットな目線を持っているからで、もしかしたら超個人的な意見でいうと脚本家の方にもどっちの方が好き、というのがあるのかもしれないが、それを脚本には見せずあくまでフラットな立場を貫き通すのがプロだな…と思って感動してしまった。2人の実在した作家でどちらにも今もなおファンがいる状態で描くのってめちゃくちゃ気を使うだろうし、脚本としてはどちらかを正義、どちらかを悪とするほうがよほど簡単だろうけど、それをしないプロ意識というかバランス感覚がすごいな〜と思って感動してしまった。すごい、すごいよ〜〜すごい…
太宰がラスト、宮沢賢治に「人間失格というタイトルはどう思う?」と尋ねて宮沢賢治が明るく「苦手です」と返す。このバランスがすごく好きだった。価値観の多様性って相手の価値観を理解することじゃなくて、相手と自分では価値観が違うと受け入れることだよね、というスタンスがきちんと令和の価値観だし、好きだなぁと思いました。

【太宰の結末についての伏線の貼り方が綺麗で好き!という話】

私は太宰治について一般的な知識以下くらいしかなかった(人間失格を読んだことはあったけど、のレベル)ので昨日、蜷川実花監督の映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」を見て予習しました。そのおかげで冒頭で太宰が「錠剤を飲んで」倒れる時点で「ん?」と思い、そのあと鉄道の中の会話シーンで疑問が確信に変わり「なるほどそういうことか」と、太宰これ死んでないのね?と切符のところまで読めたので予習しててよかったな〜と思いつつ、伏線の張り方綺麗だな〜と。
この伏線も綺麗だけど、太宰が宮沢賢治との会話の中で人間失格のインスピレーションを得て「降りてきた!早く紙を!」と焦るところがこの後の人間失格執筆の伏線になるのがめちゃくちゃ美しくて、すげぇ〜と思った。脚本が緻密というか、ちゃんと計算されていて、好き…
この舞台の世界(鉄道の中)は結局だれの脳内だったんだろう、と考えると、やはり太宰治の脳内だったのでは?となるのよね。太宰が三途の川のギリギリで見ていた夢。あるいはまあ、死ぬ間際にいる共通の場所(時間の概念がない場所)でそこはいわゆる三途の川の真ん中で、銀河鉄道が走る天の川という川が三途の川の代わりというかまあその、そういうことなのかもしれないけど。
当たり前だがあの鉄道から現世に戻った太宰はあの出来事を記憶してないんだろうけど、死者と出会うほどの臨死体験をした結果、「人間失格」という「傑作」を書くに至る、という創作は素敵だな〜と思った。映画の「人間失格」を見てた時も思ったけど、やっぱり太宰治という天才作家が「人間失格」という傑作を書くに至った軌跡というものはめちゃくちゃこう、創作の余地があるというか魅力的なテーマなんだなぁ〜と。もちろんこの舞台は創作だけど、納得感のある創作ですごいな〜と思った。
太宰治が「人間失格」なら、雨ニモマケズ他人のために尽くした宮沢賢治は「人間合格」なんだろう。それは太宰の価値観において。太宰が自身を失格としたならその対極にあるような人間性の宮沢賢治は花丸合格で、そんな存在に出会ったからこそより自分の「失格」さが明確になって人間失格を書くに至る…というのは綺麗なストーリーだな〜〜と思って惚れ惚れしてしまった。
最後、宮沢賢治は自分のためにものを書いていた、となるけれども、それはたぶん「人のために尽くす自分」を体現する手段だったんじゃないかなぁと思う。それはめちゃくちゃエゴであるけれども、根本的に「人のために、人の幸せのために」ということが自身の幸せであって、それを追い求めた結果が「小説で人を幸せにすること」で。その「自分の幸せを他者の存在に依存させるところ」が私は嫌いではあるんだが、なんというかでも、実はすごく人間らしいなぁと思った。人間らしくて、自分にもそういう部分があると自覚しているからある意味同族嫌悪的に嫌いなのかもしれない。だからこそ、共感できている気がしているだけで太宰に本質的には共感(理解、共鳴)できていないから、太宰の言葉や作品は聞いてて楽なのかもしれないな…と改めて自分の人間性を捉え直すキッカケになった。まあ私は雨ニモマケズ、やっぱり嫌いですけどね。夏はクーラーの効いた部屋で毛布にくるまりたいし冬は暖房の効いた部屋でアイスを食べたいし、軽い頭痛で仕事を休みたいし。そんな自分が嫌いではないが、真逆に生きられる人間に対して劣等感があるので、「そういうものに私はなりたい」って言われると「うるせぇ私はなりたくねぇ!!!」ってなっちゃうんだろうなぁ…

【妹の死で止まってた宮沢賢治、友達の死で止まっていたハルちゃんえみつん、の重ね方が綺麗だったと言う話】

銀河鉄道の夜は宮沢賢治が死んだ妹との終わらない時間を夢想して書いた話?という説が一般的なのかどうか、私は太宰のこと以上に宮沢賢治のことを知らないので知らないのだが。
もしそうだとしたら、というか劇中の宮沢賢治には、死んだ人間に対して、死にゆく人間に対して何もできないという後悔と無力感が残っていた。
しかし、死にゆくほうにはなんの後悔もありはしない。
死はいつも、残された方だけを苦しめる、それが太宰の「ザネリの気持ちはどうなんだ」であり、えみつんの、ハルちゃんの苦しみ。
その苦しみは残された側の時間を止めてしまう。2人の高校生はいつまでも高校生のままだし、宮沢賢治は銀河鉄道の夜に終わりが来ることを拒んだ。

雪に触れず床に伏していたトシは最後に「雪に触れたい」と願った。それを叶えようと走り出した兄の背中がおそらく最後に見た(感じた)景色だっただろう。
トシは死んだ時の自分の気持ちを明言はしないけど、兄への敬愛を見るにきっとその「最後の最後に自分の願いを叶えようとしてくれた」兄の気持ちが嬉しかった。自分の願い(雪に触れたい)が叶うことよりも、それを叶えようとしてくれた兄の気持ちが嬉しかったんだろう。だからトシは幸せなまま逝った。
宮沢賢治は妹の最後に後悔があって、だけどその最後を改めて追憶することでその後悔はすこし溶けたのだろう。だから銀河鉄道での旅が終わることを受け入れられた。
あの鉄道の中で宮沢賢治は死者だったが、妹との関係においてはまだ「死者」と「生者」だった。ハルちゃんえみつん側生者と、ほのか側死者と立ち位置がそれぞれ重なっている。そしてそのどちらでもない真ん中に、太宰がいた。
身近な人が死んだ時、その人との間にあった「自分」は時間が止まる。その人の死に対する後悔や罪悪感が時間を止めてしまう。ハルちゃんとえみつんが未だに高校の制服を着ていたように。
その止まった時間を進めることが誰かの喪失を受け入れることだし、きっと「悼む」ということなんだと思う。向こうは死んで、一方私は生きていて時間が進む、と理解すること。そういう、身近な存在がなくなったときのその喪失の乗り越え方、というテーマは作品として言ってしまえばありふれてはいるけども、その乗り越えるための方法として描かれた今回の脚本の結末が、私は好きだなぁと思った。なんというか、リアルだなというか。脚本家の方はおそらく、身近な存在の喪失を経験したことがあるんだろうなぁと(まあ人間それなりの年数生きてたらどこかでは経験することだけどもね)。そこをなんかこう薄っぺらく結論づけしないところが好きだな〜と思った。
まあこれはあくまで私の好みというか脚本と気が合ったという話で、別の乗り越え方を好む人もいると思うので、この舞台に出会えた私が幸福だったね、という話。

【作者が死んだ後も作品は生き続ける、という軸で描く演劇に対する誇りがカッコ良かったという話と、太宰と宮沢賢治の同一性が良かったという話】

太宰治の「人間失格」も宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」もめちゃくちゃ有名だが、それはどちらも作家の人生そのものとセットでの周知かなと思う。
作品は、読み手(受け取り手)がいる限り生き続ける。生きる、ということは時間が進むということで、それは成長とか進化とかを意味するんだろう。どちらの作品も(もちろんそれ以外の作品、彼ら以外の作家の白品も)未だにこうして読み手がいる限り生きていて、そして今回のように新たな解釈を加えて受け取られることで進化している。メタい視点にはなるけども、そうやってなにかを繋いでいくことが人類史(fateのオタクなのですぐ人類史とか言ってしまう)だなぁ〜と思ったし、そういう仕事をしている人たち、脚本家の方の誇りを感じてカッコイイなぁと思った。

自分は死んでも作品は生き続けるという「生き方」を望んでいたことを宮沢賢治はもちろん最後に自覚していて、太宰もほのかちゃんに「僕の作品は後世でも読まれているか」と焦って聞くほどには渇望していた。その点が「死」における価値観は違うふたりでも自分という存在が「生き続ける」ことへの執着が同じだ、という2人の中の共感だなぁと思い、いい関係性だなぁとなった。
太宰が、浮気がバレそうで帰りたくないとボヤきつつ現世に戻るのは、まだ書きたいものがあったから。話が降りてきてしまって、それを書けないことを悔しいと思ってしまったから。逆にいえば、書くものがなくなってしまったら、書けなくなってしまったらそれは生きている意味がない。
太宰は最終的に入水自殺をしたが、劇中で本人が「喀血で死ぬのが先か」と言っていた通り、自殺しなくてもそう長くない命だっただろう(史実的にもおそらく間違いはない)。私は個人的に「人間は死ぬ時が予め決まっている」と思っているし、それはその人がその人生でやることをすべて終えた時だと思っている。それがどんなに早くても、本人が死の間際に悔やんでも、周りが悔やんでも。まあこの考え方は全面的に肯定されるべきものではないと思うけど、私の中では改めて、ああそうなんだろうなぁと思った。そう思うこともひとつの、身近な存在の喪失を乗り越える方法でもあると思う。

【生きていく人のため、にある優しい脚本が好きでしたという話】

これは私の価値観が大いに入った解釈だけど、すごく「これからを生きていく人」のためのお話だったと思う。死者を救う話ではなく、生きていく人を救う話。ハルちゃん、えみつん、そしてこのあと、時間にすればほんの少しだが人生のクライマックスを生きる太宰治。
その3人の生者のためのお話、ということは同じく生者である観客を思ってのお話で、すごく優しいなと思った。そういう演劇としてのまっとうな優しさを感じて、ああ好きだなぁと思いました。

【最後に、二葉要くんのビジュアルとお声が大優勝の件】

結論、さんきゅー!!!!!大感謝!!!
二葉要くん推しであり目当てで見に行った者として、今回の役どころ、衣装含めたビジュアル、演出に感謝しかない。
女の子を口説くシーンもありがとな!!太宰といえば女たらしなのでそういう感じあるかしら?と思ったらちょうどいい塩梅で組み込んでくれてて素晴らしかった。「歳の離れた恋愛は嫌いかい?」とかザ・太宰!って感じで素晴らしかったね…
冒頭の錠剤自殺(未遂)シーン、口元に血がついてるの美しくて〜〜〜!感謝!!やはり太宰の生き様と「映像美」の相性の良さはすごいな…そしてその演出の美しさを底上げというか底を爆上げする要くんの顔面の良さ〜〜!それを信じた上でこのキャスティングをしてくれた制作陣〜〜!!ありがとうな!!!!!世界に感謝!
衣装が和装だという情報は事前に入手しており「あぶねぇ…推しが太宰やるのに和装じゃなかったら劇場のロビーで大の字になって駄々こねるところだったぜ…」と感謝&安堵だったんだけど、足元までちゃんと下駄なのは圧倒的感謝!!!!!!!!下駄はけたの、朗読劇ならでは(動きが多い舞台で下駄は危ないし、もし履いてたらファンとして「足痛くない?大丈夫?」と心配してしまって観劇のノイズになってしまったと思うので)で、ありがたいな〜と思った。着物も素晴らしかった…雰囲気最高でしたわ…
ビジュアルも大勝利なんだが、声もすごく良かった…冒頭、咳き込むので太宰だと分かるし声も推し(二葉要くん)の声だとは分かるんだが「こんな声も出たのか!!!」とのけぞってしまうような声で、素晴らしく好きだった…
どちらかといえば二葉要くんのアーティスト(ボーカリスト)としての活動を推しがちな最近だったが、役者さんとしてもやはり好きだなぁと改めて思いました。
オープニングとエンディングの音楽が太宰治的世界観にピッタリでカッコ良かった〜!!あの音楽のあと推しが太宰治として登場するのを見られるというの、推しのいる人間として味わえる幸福の中でもかなり上位の幸福ではと思う。そのくらい粋でカッコよかった……素敵な演出でした。好き。

強いて一つだけ、一つだけ要望を言うとしたら舞台用のダミーのでいいので煙草の小道具があったら最高すぎた点ですかね…再演する際には何卒煙草の小道具をぜひ……
それを叶えるためにもぜひとも再演してほしい作品でした。ちょっと予定的に現地観劇がもう厳しいので、後日配信でゆっくり見返したいと思います。

そういえば太宰の自宅と入水自殺した場所、三鷹よね。
今回高円寺での上演だったのがどこまで意識してかは知らないが、三鷹まで電車一本で行けてわりと近い高円寺で演ってくれたの素晴らしいな〜〜と思う。
個人的に、私は高円寺に住んでいたこともあって高円寺という街が大好きだし、高円寺は生きることに執着のなさそうなダメ人間に優しい(甘い)街だと感じているので、推しの太宰治を見にいくのにはぴったりすぎるロケーションだった。
劇場もコンパクトだけど見やすくてありがたかったです。

すべて含めて最高の作品でした。ほんとにありがとう!!!!!

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