東京心覚考察:これは、どこまでも我ら審神者に向けられた物語
◆初めにちょっとだけ
刀ミュのオタク数年やってるけど、ストーリーのことこんなに真剣に考えたの初めてでしたわ…すごい楽しかった。
そもそもなんで「東京心覚」ってこんな一見分かりにくい話だったの?っていう謎に対する私なりの答えなんだけど、それは「ハッキリ言うにはちょっと柔らかい=近い歴史に触れている」からあえて分かりにくくしてるっていうのと、あとオタクが音曲祭とかでもウキウキ考察やるから「じゃあ考察しがいのあるやつやるよ!」っていう刀ミュからの超食べ応えあるステーキのプレゼントだったんじゃないかなぁと思うよ。
以下
※心覚のネタバレしかない。まだ見ていない方は読まないほうがいいと思う
※パライソを見ていない審神者
※便宜上「考察」って言ってるけどもちろんこれが答えだとは思わない。あくまで解釈のひとつ
※考察というにはあまりにもガバガバなのよ
※解釈っていうかもはや妄想の域
※敬称略。刀剣男士の略称・呼び捨てダメな人は読まないほうがいい
心覚のキーワードを整理してみるよ!
心覚、ダブル以上ミーニングの言葉がすごい多いと思う。なので、まずは意味が色々ありそうなキーワードたちを整理していくぜ!
整理していくキーワードはこちら!
・ほころび
・花
・歌
◆ほころび
水心子と清磨の歌、ラスト手前の水心子の歌、ラストのソハヤと光世の会話で出てくる「ほころび」というキーワード。
単純に「ほころび」というと、縫い目がほどける、とかの「脆弱さの露呈」みたいなのが出てくるけど、そうでもないんじゃない?
ということで「ほころび」の意味を考えてみるよ~!!
①笑顔
「ほころび」「ほころぶ」は、一般的に笑顔の比喩表現。そして…
②花
そして、水心子の歌(終わりなき花のうた、のあと)の
「かたく閉ざされた蕾はほころび」
からは、蕾がほころぶ=花、と受け取れる。そういえば刀ミュは葵咲のときにも「咲=笑う」だと言っていた。
そうすると、ほころび=笑顔=花、というのはガッテンしていただけますでしょうか。
③思い、感情
さっきの「かたく閉ざされた蕾はほころび」のあとの歌詞は、
「戦い疲れたあなたはほころび 思いが生まれた」
と続く。
(※この「あなた」が誰かは今はいったん置いておく)
”蕾がほころび思いが生まれる”という表現は、阿津賀志の『矛盾と言う名の蕾』の歌詞
「肉体を得ることによって生まれた矛盾という蕾 感情という花を咲かせる」
とつながると思うのよね。
ということで、
ほころび=笑顔=花=感情
もガッテンしてくれたら嬉しい。
④始まり
そして最後に、水心子と清磨の歌の歌詞から「ほころび」を考えてみる。
この歌詞、すごく「結びの響、始まりの音」を連想するじゃん?
なのでこの歌詞と「結びの響、始まりの音」がリンクしている、とすると。
「結びの響、始まりの音」においては「結び」=「終わり」だ。相撲とかで「結びの一番です」とかに使う、〆め・最後、という「結び」。それはむすはじの本編ストーリーを見ても明らかだと思うのよね。刀の時代の終わりと、新しい時代の始まり。
ということで、結び=終わり、と仮定すると、
「いくらきつく結んでも いつかほどけてゆく」
というのは
「いくら頑丈に終わりにしても いつか結びはほどける=始まりがやってくる」
という意味になるのではないだろうか?
ラストの光世とソハヤの
「徳川の治世が続いていたらどうなってたと思う?」
「いつかほころびは出ていただろう」
は、「盤石に思える治世もいつか崩れるキッカケが出るだろう」という意味にもとれるが、「いつか新しい時代の始まりはきていただろう」という意味にもとれるし、この2つはどちらも同じことを言っているなぁと思う。
◆花
もう「ほころび=花」ってやっちゃったから逆側からもう一回、みたいな話になっちゃうんだけどさ!
まずは、花=笑顔。
そして、「我が花のうた」で歌われる「花」からは、さらに「大切な人」「守りたい人」「の笑顔」みたいな印象を受ける。
将門公の「荒地に咲く一輪の花 この心捕えて離さぬとは良い度胸だな」は、惚れた女(=桔梗の前)
道灌様の「慎ましく咲く黄金色の花よ」は山吹の少女
天海さんの「汚泥に染まらぬ穢れなき花よ」は、汚泥に染まらぬ=無垢、そのあとに続く「子守歌」から、この先を生きる子供たち、のような気がする。
(刀ミュの家康公は子供が安心して眠れる、子守歌の絶えない世を作るために太平の世を目指した。その意思(の一部)を継いだ天海さんにとっての花は、やはり子供たちなんじゃないかなぁと思う)
ただ、「我がはなのうた」の各パートの最後に出てくる「我が花のうたよ」の「花」は、またちょっと違った意味にもとれる。
将門公の「轟け力の限り 命の限り 我が花のうたよ」
道灌様の「届け 留めておけずに零れ落ちた 我が花のうたよ」
天海さんの「響けみほとせにわたる子守歌 我が花のうたよ」
3人共通の「歌わずにはいられない終わりなき花のうた 名もなく咲き誇る とわに続く花のうた」
の「花」は、大事な人=他人というよりも自分の中にあるなにか大事な「思い」なのかなぁと思う。
自分の中の思いが止まらない=花が咲く、から歌わずにはいられない。
なので、
ほころび=笑顔=花=思い
が成立すると同時に
花=笑顔=思い
も成立する…のでは…?
※水心子と三日月のバトル後の歴史人物キャストと散る花びらを見ての水心子の「あの花はあなたなのか」の「花」は、いったん置いておく!
◆歌
さっき書いた「自分の中の思いが止まらない=歌わずにはいられない」の繰り返しになってしまうのだけど、まあそういうことだ。
道灌と五月雨の歌、
「人はなにゆえ歌うのだろう 心に留めておけるから」
がたぶん答え。
五月雨と村雲のわんわんソングの最後に歌う
「移り行く思いは誰がつなぎとめる?」
の答えが「歌」だと思うので、つまり
歌とは思いをつなぎとめるもの
なんだと思うのよ。
歌の思いをつなぎとめる力は強いものがあって、だって詠んだ人は分からなくても歌は残る。詠み人知らずと書かれる歌でも、その歌と、その歌を詠んだときの思いは何百年あとにも残る。
そういう、思いをずっとずっとつないでいくのが「歌」なんじゃないのかなぁ~
ミニ謎:「名もなき草」で豊前が返事をしたのはなぜ?
割と序盤の、「桑名が耕している世界」での会話
桑名「名前はあるんだけど、名もなき草って呼ばれてる」
豊前「呼んだか?」
桑名「豊前のことじゃないよ」
豊前「なんだ、そうかぁ」
なんで豊前は「名もなき草」を自分のことだと思って返事をしたのか。
この数シーン前にある「居場所が分からないのは俺も似たようなもん」は、明らかに豊前が2021年現在行方不明なことの(自虐)ネタだろうけど、「名もなき草」って、なんなん…?
私は豊前江の有識者じゃないから、なんとなく「豊前江の有識者の中では定番の説なのかな~」と思ってTwitter調べたらそうでもないらしく明確な答えっぽいのが見つからない。
ほう…?と思って考えてみた。
まず豊前には「豊前江」という名前がある。ので、名前がマジでないわけではない。
次に、「名もなき」というのは「有名ではない」という意味にも使われるが、豊前は有名ではないということはない。豊前江という名前は歴史に残っているし、そもそも江というだけでじゅうぶん有名だろう。
そこで桑名の「名前はあるけど、名もなき草って呼ばれてる」から考えてみる。
名前はあるけど「名もなき草」と呼ばれている理由を考えると、それは呼ぶ人が「その名前を知らない」からだ。
もしかして。
豊前江の今の所有者は、豊前江の名前を知らないのではないのか。
その刀が豊前江だと知らないから、だから豊前江は現在、行方不明なのではないだろうか。
今の豊前江の所有者は、豊前のことを「名前の分からないひと振りの刀」と呼んでいるのかもしれない。「名もなき刀」と。
だから、豊前は「名もなき草」と呼ばれて返事をしたのではないだろうか。
でも、でもね。ちょっとヒェッてなるけど、そう暗い話でもないと思うのよ。
心覚では序盤、「名前が分からないのは自分を見失う原因」のように描く。名前が混ざりそうになった水心子は、「私は水心子正秀」と言い聞かせることで自分を取り戻そうとしている。
「線引きは、今の私には必要なのかもしれない」とも言う。
そこに現れる「あの少女」。少女に対し、水心子は「君は誰?」と聞く。
このときの水心子は名前、線引きに執着がある。
だけど、ラストシーンで清磨に「あの子の名前は?」と聞かれた水心子は、「名前は知らない」と答える。水心子はあの子の「名前は知らない」けど、「君が誰なのかようやく分かって」いるのだ。
つまり、「名前がなにか、ということはさほど重要ではない」ということ。
名前は線、線引き。ソハヤが言うように、線引きが必要なこともあるだろう。だけど、線は人の心の中にしかない。線は、なくてもいい。名前は分からなくたっていい。
豊前は自分が行方不明であることに悩んだり悔んだりしているようには見えない。行方が分からない、と笑い飛ばす。
そして「名もなき草」という言葉に返事をして、桑名に「豊前のことじゃないよ」と言われたあとは、少し残念そうに「なんだ、そうかぁ」と答える。なんか「名もなき草」と呼ばれることをけっこう気に入っているようにも見える。
今現在行方の分からない豊前江は、豊前江の名前を知らない持ち主に、名前が分からないなりに大事にされているのかもしれない。
観葉植物を貰ったときに種類を聞いたけど、すっかり忘れてしまった。でも毎日水をあげて陽にあてて、植え替えて、毎年花が咲く。そんな風に世話をしている人のように。「名もなき良い刀」と、大切に。
謎①水心子のみた「放棄された世界」ってどこ?
心覚一番の難題といってもいい、「水心子が見た世界」。これについてゆっくりじっくり考えさせてくれ!
◆まず分かっている情報がコチラ
・放棄された世界
・ほころび
※清磨と水心子の歌、「何を見つけたのかな?」「ほころび」から、水心子が見つけた(見た)もの=放棄された世界=ほころび
・放棄された世界に耐性を持つはずの水心子が自分を見失うほどの世界
・審神者いわく「知らないほうがいいこと」
・水心子が、守ることをためらう世界
・守るべき未来である(=正史)
・「時間、いや意識」が盗まれている
・どこかで「間違えた」
・水心子しか見ていない(清磨は見ていない)
この中から
・放棄された世界に耐性を持つはずの水心子が自分を見失うほどの世界
・審神者いわく「知らないほうがいいこと」
・水心子が、守ることをためらう世界
の3つはその世界がいかに「ひどい」か、という表現だと思うので、いったん除外!
残りの6つから考えてみよーう!
①守るべき歴史、未来である
わりと大事な「大前提」だと思うんだけど、水心子は自分が見た歴史・未来について「守るべき価値のある未来、歴史なのか」と審神者に聞いている。
それに対し審神者は「それを私に答えさせたいのですか?」という、問答無用のYESのような答えを返している。
この疑問を水心子が持つということは、まずこの未来・歴史は「守るべき歴史」つまり「正しい歴史」「正史」なわけだ。「大きな川の流れ」なわけだ。なんか、話だけ聞いてると時間遡行軍のせいで大変なことになっちゃった世界みたいに思えるけど、そうじゃない。歴史改変が入らない、「歴史」のはず、なんだよなぁ。
②ほころび
清磨「何を見つけたのかな?ほころび」
水心子「いつ生まれたのかも分からぬほころび」
この「ほころび」にさっきキーワードのところで考えたいろんな意味を当てはめてみる。
・いつ生まれたのかも分からぬ「笑顔」
・いつ生まれたのかも分からぬ「花」
・いつ生まれたのかも分からぬ「思い、感情」
・いつ生まれたのかも分からぬ「始まり」
「いつ生まれたのかも分からぬ」という表現は、「我が花のうた」で水心子と清磨が歌うパート
「始まりはいつだったか 遠い昔かもしれない 今かもしれない」
ともつながるように感じる。
・・・で?・・・よし、いったん置いておこう。
③「時間、いや意識」が盗まれている
まずはじめに。「時間、いや意識」は、水心子が言う「失われたもの」と同じなんだろうか?
「時間、いや意識」が盗まれていると水心子が語る冒頭、演出をみると後ろに写る現代東京を破壊しているのは時間遡行軍のように見える。時間遡行軍によってなにかが盗まれているのか?
いや、そうではないはずだ。水心子は最後、この「時間or意識が盗まれた未来」を守ることを決めている。つまりこれは正史。時間遡行軍の介入はないはずだ。
そして水心子は「失われたもの」のために「問い直す必要がある」とは言うが、「取り戻す」とは言わない。失われたものは、取り戻す必要はないわけだ。つまり、失われることが正しい歴史。そうすると、「時間、いや意識」=「失われたもの」ということになる(よね?)
じゃあこの「時間、いや意識」を盗んだのは誰だったのか。
歴史改変ではない=歴史修正主義者(時間遡行軍)の仕業ではない。しかし演出では、時間遡行軍によって東京が崩れたように見える。
この時間遡行軍は「時間遡行軍に見える、ほかのなにか」なんじゃないだろうか?
盗む、という行為をして正しい存在。それはおそらく、「その時代に生きる人」だろう。
そして盗まれたもの。
時間、については「問わず語り」の歌のなかで「誰もいなくても時は止まらねぇ」と歌っている(ソハヤが)。つまり時間に人は関係ない。
となると、意識=思い。感情、考え。そういうものが盗まれたのだろうか?
水心子はこの「失われたもの=時間or意識」のために、幕末から「問いなおし」を始める。
(これ最初、幕末→現在にかけてやり直すのかなって思ったけど違うのな。幕末→平安中期までさかのぼって「問い直す」のねって視聴5回目にして気付いたよ)
勝海舟に「あなたが守ろうとしたものはなんだ?」
天海に「なぜこの地に結界を張ったのか」
道灌に「どうしてこの地に城を築こうと思ったのか」
将門に「なぜ朝廷に弓を引いたのか」
それは、「なぜ、この江戸=東京の地で生きることにしたのか」という問いにも聞こえる。
その答えを「問い直す」ということは、この「盗まれた意識」というのは「江戸・東京の意識、意思、アイデンティティ」みたいなものなんじゃなかろうか。
一度その時代でその「意識」が盗まれた。しかしそれをその時代の人(街)に返すことはしない。それが正史だからだ。
だけどその盗まれた、失われた「意識」のために、水心子はそれを覚えていようとしているのではないか?
まとめると、「意識が盗まれた世界」とは、その時代に生きる人によって「江戸・東京としての意識」が失われた世界、なのではないか。
問い直した結果、水心子が得た結論は
「記憶にも記録にも残らなくても、確かにそこにいた。ようやく分かった、愛しいと思う心も歴史をつないでいた」
だった。
④どこかで「間違えた」
どこで?という答えは、さっきの「この時代(幕末)から」なんだと思う。
間違えた結果、演出では「線」が引かれる。keep outのテープのように。
でもやっぱり、その「間違えた」歴史が「正史」なんだよな。何を間違えたのかは…ちょっとわかんないから…いったん置いておくけど…
⑤放棄された世界
清磨が審神者に「水心子が見たのは、放棄された世界なんじゃないか?」と聞き、それを審神者が否定しない(ほぼ肯定する)ことからこれは間違いないと思う。
でも、じゃあおかしくない?ってなるんだ。
ゲーム内の特命調査で出陣した「放棄された世界」は、そこで行き止まりのような「切り離された世界」だった。「放棄された世界を修正する」ことが求められており、「放棄された世界が正史」ではなかった。
えっじゃあこの世界の正史の行きつく先は「放棄された世界」=「行き止まりの世界」なのか?
…そうではない、と思う。
水心子が最後に「今は悲しくても、その先に残るのが願いならそれでいい」というように、放棄された世界は悲しいけれどその先がある。
「大河の行きつく先」と水心子は言うけれど、三日月は「これまでとこれからをつなげ」と言う。正史は決して、「行き止まりの世界」ではないのだ。
じゃあ「放棄された世界」じゃないじゃん!!
そこでこの心覚の中で唯一「放棄」という言葉がポジティブな意味で使われたセリフを思い出してみる。それは、
勝海舟「放棄するんだよ!江戸をな。」
そう。江戸は放棄されている。すごく前向きな意味で。
もちろんその時代の政権(幕府)からしたら敗北だ。逃げだ。しかしその土地に生きる人、この先を生きる人からしたらそれは「革命」であり「新しい時代の始まり」だ。
そして、江戸は東京になる。江戸は放棄されたあと、東京になる。
つまり「放棄された世界」とは「東京」のことではないだろうか。
江戸として一度放棄された世界。
そして悲しみの先に願いをつなぐ世界。
東京が「東京」になってから「悲しみ」に覆われる出来事っていうと、まあ色々あるけどたぶん大きいのは
・関東大震災
・東京大空襲
・現在のコロナ緊急事態宣言
の3つかなぁと思う(上2コに比べればコロナ禍は軽めに感じるけど、今上演している作品ということも考慮して)
水心子の見た「今」が、このどれなのか。明確な答えはないけど、私は3つめ、現代の「コロナ禍東京」なんじゃないかなぁと思う。
砂の落ちる「砂礫に覆われた」世界に入る前に、必ず「現代東京」と思われる映像が入ること。2度目の「現代東京」での水心子のメッセージ「来ることを選んだ。来ないことを選んだ」が明らかにコロナを意識したものであることから。
◆まとめ:水心子のみた「世界」とは
江戸を放棄した先の、現代(2021年)東京であり、
東京としての「意識」が一度奪われており、
いつ生まれたのかも分からぬ笑顔、花、思い、始まりがある場所であり、
なにかを間違えた、
それでも「守るべき」正史。
それはやっぱり、現代の東京なのかなぁと思う。
現代の東京が「知らないほうがいい」ほど、「水心子が自分を見失う」ほど、「守ることをためらう」ほどひどい歴史か、という問題だが、それはたぶん「現在」を生きる我らが決めることじゃないんだと思う。その時代が幸せだったか酷い時代だったか、決めるのは後世の人々だ。
江戸を放棄した先の東京。コロナ禍で地方移住をする人も多い。東京に固執することだけが「正解」ではない価値観のある時代。
このコロナ禍は政治もゴタゴタしたし、政治への批判も多かった。私は政治の話はしない派だけど、たぶん「間違いがなかった」ことはないだろう。それは政治というデカい規模でなくとも、個人の行動でも。なにも「間違えない」人なんていない。
東京に生きる人たちの笑顔、思い、始まりがいつからかなんて水心子には分からない。当然だ、東京に生きる人々の大半は、歴史に名を残さない人。記憶に残らない人だ(一応区役所の記録とかには残るかもしんないけど)。
そうしてその「歴史」について、最後に水心子と清磨はこう話す。
清磨の「行きたい場所に行って…」のセリフは、一瞬今現在のコロナ禍を想定させる。確かに今、行きたい場所に行けないし、会いたい人に会いにくい。でも、「それができなくなると歴史は変わってしまった」。
ん?今が「そう」だけど?今が「変わってしまった歴史」ということ?
そうではないんだと思う。清磨のいう「変わってしまった歴史」は今のコロナ禍が永遠に、より強い制限で続いた歴史なんじゃないだろうか。つまり今のコロナ禍超レベルアップバージョン。
「変わってしまった歴史」が「コロナ禍超レベルアップバージョン」だとすれば、「正史」は「コロナが落ち着いた歴史」なわけだ。加州清光が何度も何度も「俺たちは、この先の未来が明るいって知っている」と我らに言う通り、この先の未来は明るい。それが「正史」だと、刀剣男士たちは知っている。
ただし、それは「任務」として守らねばならないほど脆弱な「未来」だ。そしてその未来を守るために、大事なことは「笑顔を増やすこと」。
もう一度加州清光の話になるが、天狼2020で「俺たちは、この先の未来が明るいって知っている」と言われたときに、「ああそうか。歴史改変の原動力は、現在への不満なのか」と気付いた。今がイヤ、こんな世界イヤ。だから過去から変えてやる。それが歴史改変の発生源。
今に生きる人の「笑顔」を増やすことは、歴史改変を未然に防ぐ超重要な「任務」だ。
任務は、笑顔を増やすこと。
これが水心子含む8振が「放棄された世界」で最後に言う、「すべきことをする」なんだと思う。
だから水心子は「傷つかないでほしい」という。笑顔になってほしいから。笑顔にするのが任務であり、存在意義だから。
ここ5年、ミュの刀剣男士たちが「主たちを笑顔にする任務で来たよ!」と言っていたのは、言葉の綾でも(原作ゲームにない)ライブをする言い訳でも冗談でもなんでもなく、マジで現在を生きる我々を「笑顔にする」ことが「歴史を守る」「歴史改変を防ぐ」任務だったから、なんだなぁ…。
ありがとう……
⑥水心子しか見ていない(清磨は見ていない)
最後に、これは後述の「桑名が耕していた世界」=水心子の見た「放棄された世界」ではない、という理由の補足です。「桑名が耕していた世界」には桑名はもちろん豊前や村雲もいて、水心子だけがみた世界、ではなかった。なので、「桑名が耕していた世界」≠「水心子が見た放棄された世界」。
桑名が耕していた世界にも清磨は来ていないけど、「水心子が見た放棄された世界」についての清磨の言葉を私は「水心子だけが見た」というように受け取ったので、そういうことにしたんだわ!
ミニ謎:水心子はなぜあんなに混乱したのか?
まずは、水心子が集合体であるために、いろんな水心子正秀の「記憶」が流れてきて混乱してしまったから、だと思う。
源清磨も集合体だけど、刀工の水心子正秀と源清磨についてチラッと調べると、水心子正秀のほうがかなり作品数が多そう。
なのでそれだけ水心子は「多くの記憶」に引きずられやすく、また集まっている記憶が多い分「勝者の歴史」以外も目に入りやすかった、という説を言ってみる。どうなんだろうね?
※最初、水心子正秀(刀工)が古刀再現にこだわったことから三日月と同調しちゃった?と思ったけど水心子正秀(刀工)が目指した古刀って鎌倉期くらいらしいので、ほな三日月とちゃうかぁ~~~となった。
謎②桑名が耕していた「世界」ってどこ?
2シーンしか出てこないのにめちゃくちゃ記憶に残る、桑名が地面を耕している世界。はたしてあそこは一体、どこだったんだろう?
◆分かっていること
・地面が硬い(コンクリートのよう)
・硬い地面を掘れば土があり、雨や土を浴びせてあげればよい土になる
・道があった
・道はもういらない
・誰かが生きた(音は聞こえない、けど)
・あなたが生きた
・誰もいなくなった
・誰も帰ってこない(のかなぁ)
・この星=地球のどこか(たまご)
・風や雨、光(太陽)はある
・もぐらはいる=人以外の動物はいる
・植物は育つ
・一面の山吹畑になった
・食べられないものは、「この世界でも」必要
◆なんで桑名(含む数振)はあの「世界」に行っていたのか
あの「世界」が出てくる2シーン、歴史遡行軍は出てこない。つまり歴史改変が起こりそうになったのでそれを阻止する、という任務で行っているわけではないみたいだ。
遡行軍がいないせいか、みんなあの世界ではリラックスしているように見える。仕事中というより休憩時間、みたいな。
桑名は畑を作っている(働いている)が、それ以外の男士は畑を耕す様子もない。モグラを追いかけたり植物を見たりしている。村雲は「山吹を植えたい」と言っているが、自分で植えよう!みたいなやる気は感じられない。
…みんなあの世界になにしに行ってたの???
◆どうして「あれ以来行っていない」のか
ラストシーンで桑名は「あれ以来あそこには行ってない」と言う。
「あれ以来」とは、おそらく「山吹を植えて」から。村雲が歌に詠みたい「想像っていうか、こうだったらいいなっていう景色」はおそらく「あの世界の山吹が咲いている景色」で、それを見ていないということは山吹を植えてから行っていない、ということだろう。
◆え、山吹を植えに行ってたの?
あれ以来行っていない、ということは「もうあの世界に用事はない」ということだろう。特命調査で言う「放棄された世界」みたいな感じなら、「もう行けない」とか「行けてない」とか言いそうだ。「行ってない」というのは「行こうと思えば行けるけど、行く必要はない」というニュアンスに感じる。
つまりあの世界に山吹を植えたことで、彼らの目的は達成されたわけだ。
…なんだそりゃ!それなに任務よ!
Q.この世界は、水心子の見た「放棄された世界」の過去なのか?
水心子はあの世界で桑名と
桑名「誰も帰ってこなかったら、植物に覆われてしまうね」
水心子「やがてそれすらも枯れ果て、世界は砂礫に覆われる」
という会話をしている。
この世界が「人が去り」「植物に覆われ」「植物も枯れ果て」「砂礫に覆われる」なら、それはいつか「放棄された世界」になるんだろう。
でも、じゃあその「放棄された世界になる場所」に山吹を植えた意味はあるのか?
心覚で刀ミュは、
「食べられないものも必要」と言うが、
「それは、見る人がいてこそ」と言う。
この「食べられないけど必要なもの」の象徴が娯楽でありエンターテインメントであるのはまず間違いないと思うんだけど、そうすると
「見る人のいない娯楽・エンタメは意味がない…とまでは言わないけど、見る人がいてこそだよね」
という結論になる。
「美しい花はそこにあるだけで美しいのでは?」を否定し、「それを見た人の心が美しい」と言う。どんなに美しい一面の山吹畑でも、それを見る人がいてこそ、なんだ。
じゃあ、「誰も帰ってこなくていつか砂礫になる世界」に「実らず美しいだけの山吹」を植える意味は、ないだろう。このお話の中で言えば。
なので、
Q.この世界は、水心子の見た「放棄された世界」の過去なのか?
A.ちがう!
だと私は思う。
◆「誰もいなくなったけど、いつか誰かが帰ったきたらいい」場所とは
そうなるとあの山吹は、「いつか誰かに見られること」を想定して植えている。たぶん。
あの世界は「いつか誰かが帰ってくる可能性がある」世界なんだ。
今は誰もいない。道は必要なくなった。そこで誰かが生きた音も聞こえない。
だけど桑名は「忘れないでね 覚えていてね」と歌う。なにを?私はこれ、「ここであなた(誰か)が生きたこと」を忘れないで、と大地に伝えているように感じた。コンコン、と硬い地面をノックして、出てきた土(大地)に話しかけているんだと。
そこに誰かが生きたことを覚えていてほしい。山吹と一緒に、待っていてほしい。ゆっくりじっくり。きっといつか、誰かが帰ってくるから。
これは、私が心覚を生観劇したのが3月11日だったせいも大きいと思うんだけど、やっぱり3.11でガレキになった世界、そして原発事故で人が立ち去った土地、を連想しちゃったんだよなぁ。
確かに人間は、あの土地を放棄した。
でも、世界はぐるぐるの中にあって。気が遠くなるほど時間はかかるかもしれないけど、いつか帰ることができるのかもしれない。
そこに人間が帰ったときに、その場所に一面の山吹畑があれば。
1人で帰ったときに山吹が咲いていれば、人は『問わず語り』の中で歌われる、
「誰もいないなら 探しにゆこう 誰かがいる風景 誰かといる風景」
のように、誰かを探しに行くのではないだろうか。美しいとあふれた想いを歌にして、誰かに伝えにいくのではないだろうか。
そうして、『我が花のうた』で歌われるように「民はまた花を咲かす」のかもしれない。
そのために桑名はあの場所を畑にした。そして「美しいだけ」の山吹を植えることに賛成した。そして山吹を終えて、やるべきことを終えたので帰ってきた。
これが任務だったのか、審神者からの指示だったのか、なんなのかよく分からない。任務のような気もするし、桑名(含む数振)の遊びというか、楽しみのだったような気もする。
ミニ謎:後半シーンの時空はどこ?
後半、つまり水心子が自分を取り戻し清磨のいう「いつもの水心子に戻って」からの時空が、私にはけっこうややこしい。なので整理させて!
「いつもの水心子」に戻った直後、水心子・清磨・ソハヤ・光世は幕末へ行く。
そこで勝海舟に出会う。この時空には時間遡行軍がおり、勝海舟を守る。
ただし時間遡行軍による歴史改変はない(未然に防いだ)。
つまり「正史」だ。ソハヤも「歴史通りだ」と言っている。
ちなみに、おそらくだが「彰義隊の壊滅」から、ここが上野戦争だとすると1868年旧暦5月。
勝海舟が出てきた前のシーンの江戸城無血開城は1868年の旧暦3-4月なので、時系列は順番通り、のはず。
次!次は、天海vs7人目の将門公の怨霊戦。江戸初期だ。
ここにも時間遡行軍がいるが、天海は史実通り江戸に結界を張って設計を終えて入寂する。
次!次が太田道灌のいる室町中期。
ここで水心子は道灌に「なぜこの地に城を?と聞く。
ここがオカシイ。ここまで時代は行ったり来たりしているがそれぞれの時代に降りる順番は時系列順なのに、ここには豊前がサクッと殺したはずの道灌が生きている。
ここは、どこ?
そして次。次は平将門生前、平安中期
ここから『我が花のうた』が始まる。
時間遡行軍がいる。しかし、水心子が最期を見たはずの将門が生きている。
『我が花のうた』に出てくる道灌はけっこうな大けがをしている。さっきのシーンでは怪我してなかったのに。
そして時間遡行軍ではない敵と戦っている。
ココは、道灌が史実通りに死ぬ時空、なのでは…?
そして『我が花のうた』で、さっき入寂した天海が「祈り」をささげる。
『我が花のうた』に入ってからのラスト3シーン(将門→道灌→天海)は明らかに時間が前に来た時より戻っている。
ただこれは、『我が花のうた』のシーンだから、と考えると割とスッキリする。『我が花のうた』では歴史人物はみな史実通り、かつ(天海は微妙だが)「最期の瞬間」を迎えているように見える。
それは『我が花のうた』でうたう「この命に終わりは来る 必ず来る」を象徴するのが「最期の瞬間」だからではないだろうか。
そうすると、水心子が道灌に「なぜこの地に城を?」と聞いたシーン(五月雨と”美しい”の話をするシーン)だけが明らかにおかしい。時間が遡っている。ここは一体どこ?
穏やかな道灌がいて、その道灌を殺したはずの豊前と、それを見ていた五月雨が話している。江戸城を見ながら。
道灌と五月雨は、五月雨が豊前を迎えにきた一瞬しか面識がないはず。なのにずいぶん親し気に話している。
…もしかしてここは、「静かの海」なんじゃないだろうか。「静かの海」が何を指すのか(パライソを見ていない私には)分からない。だが豊前が「連れてってやりたい」と言った場所が、ここなんじゃないだろうか。
謎③水心子のいう「あなた」「彼」が難解なのよ!!
心覚の個人的難解セリフ3TOPがコチラ!
水面に映る三日月との戦闘後、散る花に向かって
「あれは、あの花はあなたなのか」
”我が花の歌”のあとに歌う、
「戦い疲れたあなたはほころび」
将門公の最期と怨念化する瞬間に立ち会った際の
「だが彼はそうではないのか?」
すべて水心子のセリフだ。
なにが難解って、この「あなた」「彼」が誰なのかよく分からないから難解なのよ!
でもがんばって解釈してみるわよ!いいわね!
初めに:水心子の二人称
水心子が作中で使う二人称はおおむねこちら
・あなた→三日月、道灌、将門、天海、勝海舟
・きみ→少女
・我が主→審神者(ミュ本丸審神者、我ら観客審神者ともに同じ)
◆「あの花」の確認
あなたが誰かの前に、「あの花」が何かを確認させてくれ!いろんな人が考察で書いてくれてるけど一応な!
今までの公演で出てきた花や、出てきた歴史人物を象徴する花。そして中でも、三日月宗近と接触のあった人、「歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされる人」が多め。っていうか(みやこわすれの吾兵=信康とすると)山吹の道灌だけ三日月と接触が(今のところ)見当たらない。
そして、ひとつ考えておきたいことが。それは、幕末(天狼→むすはじ)を象徴する花がない、ということ。たしかに幕末2作って、天狼再演2020で沖田くんを連れて行ったのが「よきかな」と喋る猫だったけどあれが三日月だという確証はない。声も違ったし。
なので幕末は三日月が介入しづらいのでは?という仮説が立つ。理由は色々考えられるけど、水心子含む新々刀がいるのでそっちに託している?可能性?あるいは時代が浅いと、新々刀と担当である「これから」に近いから入りにくいのか?それとも自分が打たれた時代から遠ざかると恥ずかしいんですか~??ウッソォ~そんなタマじゃないでしょ三日月さん!
これについては謎!続報を求む!
◆「あれは、あの花はあなたなのか」
この「あなた」の解釈ってたぶん2通りで、
①あの少女
②三日月宗近
のどちらか。
花=笑顔、そこに生きる人の思い、花の香=残らないもの=名もない人々
だとすると、たしかにこの「あなた」は「あの少女」っぽい。
でもだとしたら、「あの花は、きみだったのか」って言いそう~って思うんだよね!水心子はあの子のことをずっと「君」と呼ぶわけだし。
あの子のほうを見て言うように見えるけど、あの子がいる場所は、さっきまで(スクリーンに映った)三日月がいる場所で。そう考えると二人称の統一のあいまって、私は
「あなた」=「三日月宗近」
と解釈している。
でもそうなると、さっきの「あの花が象徴する人たち」とイコールにならない。あの花は、歴史の中で悲しい役割を背負わされる人たち、の象徴なのだ。それがどうやったら三日月になるの?
そう思ってたんだけど、この「花」、「思い、感情」の意味もあるのではないだろうか。
「あの想い・感情は、三日月宗近だったのか」
つまり、
「あの感情の持ち主(発生源)は、三日月だったのか」
だ。
そしてその三日月の感情は、どこから来たのか。
それは、「勝者のもの」である「歴史」を守る「刀剣男士」でありながら、「負け」に肩入れしてしまう三日月宗近の「矛盾」。
そう、感情は「矛盾」から生まれるって、我々は「阿津賀志」の時から知っている!1日1回聞こう!名曲『矛盾という名の蕾』!!!
あの花は、「悲しい役割を背負わされる人」に触れた三日月の胸に咲いた「悲しみの感情」なのではないだろうか。
そして水心子のセリフはこう続く。
そして倒れる水心子。
直後、水心子は「あの時、三日月宗近の目には悲しみの色が浮かんでいた」
と言う。
この「あの時」って、上記の「あの花は、あなたなのか」と気付いた瞬間なんじゃないだろうか。あの時、水心子は三日月宗近の悲しみという感情の花を見た。そして、三日月の心を少しでも軽くしたい、と思ったんだろう。
「この時代から問い直す必要」を、「失われたものと、友のために」と言う。失われたもの、は前述の通りだとして、この「友」っていうのが三日月のこと、なのかなぁと。
良かったね三日月。今まで三日月が相手を「友」って呼ぶばっかりだったけど初めて誰かから「友」って呼んでもらえた(かもしれない)よ!
※余談:友っていうと音曲祭『壽歌』の「友よ友よ」で明らかに会話のない会話をしていた鶴丸と三日月を思い出すけど、あれはなんだったんだろうね…
◆「戦い疲れたあなたはほころび」
そうなるとこの「あなた」も三日月のような気がするのよなぁ。
ここの歌詞は
「かたく閉ざされた蕾がほころび
戦い疲れたあなたはほころび 思いが生まれた」
戦い疲れた=一人で「悲しい役割を背負わされる人」に悲しい役割を背負わせる、という戦いに疲れた三日月。あの飄々としたおじいちゃんにほころび(ほつれ)が出るほど疲れ、「悲しみ」という思いを咲かせた。その花を、水心子は見たのだ。
あるいは。これはあるいはなのだけど、ミュ本丸の審神者のような気もする。
ミュ本丸の審神者、いつもおおらかで悠々としているけど、今回の水心子や清磨との会話には「疲れ」や「あきらめ」みたいなものを感じた。もともとハッキリもの言う人じゃないけど、よりそれが強まったというか。
三日月は一人で背負う理由を「(審神者を)曇らせたくはない」というけれど、審神者もまた「三日月を曇らせたくない」ために、曇っているのかなぁ、と。
水心子はきっと、三日月の心も審神者の心も、軽くしたんだろうなぁ。
◆「だが彼はそうではないのか?」
将門公が討たれるシーンで水心子は
「歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされる人へ向けるあなたのまなざしは優しい。だが、彼はそうではないのか?我らが守ろうとしている歴史は、未来は、誰のための歴史なんだ」
と言う。
この「彼」って、誰?
「悲しい役割を背負わされている人」へ向けるまなざしが優しいことから、「あなた」=「三日月」は間違いないと思える。
このシーン、舞台上は水心子と将門の2人のため、普通に考えると「彼」=「平将門」のように取れる。
だが、「彼はそうではないのか?」と言った後、「我らが守ろうとしている歴史は誰のためのもの?」と問う。この答えが「平将門」とは言い難い。
将門公は負ける側だし、未来にはいない。
では、水心子が「彼」と呼ぶのは誰だろう。
それは、ミュ本丸の審神者なのではないだろうか。
水心子の「守らねばならない歴史なのか?」に「それを私に答えさせたいのですか?」と返す。
清磨の「水心子の見た世界は…」に「知らないほうがいいこともある」と返す。
それは審神者が、現在を生きる人でありながら「歴史を守る役割」を背負わされている人、だからではないだろうか。
知らないほうがいいような、守るべき価値もないかもしれない歴史を守り続ける。その悲しさ。
未来は、現在を生きる審神者のためのもので(も)あるはずだ。
なのに彼は、悲しい役割を背負わされているように水心子には見えている。
だから水心子は、未来を生きるはずの彼=審神者、が「悲しい役割」を背負ってまで守る価値のある未来なのか?と問うんじゃ、ないかなぁ~。
ミニ謎:「水清ければ 月宿る 魚すまず」の解釈
水心子と清磨の歌に出てくる
「水清ければ
清磨:月宿る
水心子:魚すまず」
という歌詞。
「水清ければ 月宿る」
まずは清磨から!
これは割と単純に、「水(水面)が美しければ、月が映る」という意味だよなぁと思うんだけど、それを清磨が嬉しそうに歌う意味、とは?
水心子が戦っていたのが「水面に映った三日月」だとすれば、それは「三日月の心を理解する助けになった」のが「美しい水面」だ。
清磨は大典太に三日月のことを尋ねるくらいには「三日月ってどんなやつだろう?」という興味関心があると感じる(それが水心子を心配する気持ちからくるものだとしても)ので、「月を映してよく見る(理解する)」ために「清き水」をよしとしていたのかなぁ。
あるいは三日月に限らず、誰かを知る、理解することの助けになると知っていたのかもしれない、自分自身が「清く」あることが。
「水清ければ 魚すまず」
次に水心子。
水心子のいう「水清ければ」は、「強い意志、揺るがぬ心」のような気がする。「水清ければ」の前に「刀の誇り その意味を追い続け たとえひとりでも行くだけ」と歌っているように、水心子の歌う「清き水」は揺るがないキッパリとした心のように感じる。
そのうえで「魚すまず」とは。水が綺麗すぎる(バクテリアとかプランクトンとかすらいない)と魚は生きられない。それを水心子は「それでいい」という。
それは、心が強く揺るがなければ誰も、仲間も時間遡行軍も入り込む隙がない、という決意に聞こえるんだよなぁ。
でも、水心子は中盤で清磨に「ついてきてほしい」といい、周りにも協力を求める。そうなると「水清ければ」って…
「水心子」「清磨」の「水清ければ」=友と一緒なら
「水清ければ」は、水心子の「水」と清磨の「清」の意味も、もちろんあると思うんだよね。
それってつまり、「信頼できる友と一緒にいれば」ってことなんじゃないかなぁ。
信頼できる友と一緒にいれば、誰かを知ること理解することを助けてくれるし、悪い感情(さかな)もすまない、かもしれない。
清磨が「魚もすむかもしれないよ」と歌う前の歌詞が私には聞き取れんかったからここの解釈が出来てなくて、また歌詞カードきたらゆっくり考えたいよなぁ~~って思ってる!
整理:「大きな川」と「小さな川」の関係
刀ミュ全作品通してのキーワード「大きな川」。
これの解釈が今回の心覚でめちゃくちゃ進んだので、整理していこーう!!
「歴史とは、大きな川のようなもの」
とは三日月のセリフ。
そして
「小さな川のせせらぎに心洗われることもあるだろう」
とは水心子のセリフだ。
大きな川=歴史 だととすると、
小さな川=歴史未満 ということだ。
歴史に満たないもの。つまり、歴史の記録や記憶には残らない、「名もなき人々」「移りゆく思い」「花の香」そして、「敗者の歴史」だ。
水心子は最初(中盤だけど)
「大きな川も大事だけど小さな川も必要だろう!(要約)」
と言う。
そして最後に、
「記録や記録に残らなくても、そこにいた」
と言う。
つまり「小さな川」もたしかに「あった」と知ったわけだ。
これは私なりの解釈だけど、水心子ははじめ「大きな川と小さな川は交わらない別の流れ」だと思っていて、最後に「愛しいと思う心(歴史に残らないもの)も歴史をつないでいた」=「小さな川も大きな川をつないでいた」と分かったのではないだろうか。
正義と正義のぶつかり合い(=いくさ)。そこで負けた方(小さな川)は勝者に飲み込まれる。小さな川の流れは、なかったことになる。
だが、大きな川の中には小さな川を流れていた水が必ず含まれている。それが、どれかは分からなくなってしまうけど。でもたしかに「ある」。
小さな川と大きな川はけして別々のものではない。ただ、川の名前は大きな川のものしか残らない。流れは大きな川のものだ。それが歴史。
でも、たしかにそこにあったんだ。そう水心子は、分かったんじゃないかなぁ。
キーフレーズ「歴史とは勝者が語るもの」について
将門公が語る2つのことが、めちゃくちゃ心覚を解釈する上で大事だと思っているからここに書かせて!
①歴史とは勝ったものが語るもの
②刀のように、残るものが語る
歴史とは、勝者が語るものでしかない。それは以前にも出てきた(よな?)
そのうえで大事なのは、刀剣男士は「勝者側」ということだ。
そりゃそうだ。いくら元の持ち主が戦で負けていようと、その刀が「その後」に残っている、ということは「勝った側に所持された」、勝ったもの、だ。
(一部負けたときに燃えたりした刀もいるので、そこはどうなんだろう…となるけど。少なくとも水心子や三日月はそうではないので)
つまり、刀剣男士が見る「歴史」はどんなにいろんなものを見ようと思っても「勝者が残した歴史」でしかない。あくまで一部、一側面なわけだ。
水心子の言うとおり「本当のこと」なんて誰も分からない。
だから水心子は歴史・未来=「放棄された世界」について、
「勝ったものが残した歴史でしかない」
「本当のことなんて誰にも分からない」=見えない部分がある
と分かり、だからこそ「見えない部分」に願いと希望をもって、「放棄された世界」を守ることを決めた、と私は思ってるんだ。
その「見えない部分」が「これから先に願いを残す」。願いを残す、ということは、もしかしたら「願った人」は「これから先」にいないのかもしれない。負けた・そこで終わってしまった人かもしれない。だから水心子(勝者の歴史の観測者)には見えないけど、それゆえに「願いがあればいい」と希望を持てるんだろう。見えなくても、そこにあるはずだから。
水心子が言う「世界がいびつに見えていた」とは、水心子にははじめ「勝者の歴史」しか見えていなかった、それしかないと思っていた、からなんじゃなかろうか。
それが「三日月の悲しみ」に触れることで、「見えなくてもある」と気付く。まぁるいはずの月の暗い部分と同じように。
だから、この将門公の言葉ってすごい大事だよなって思いますのよ。
凱旋公演観劇後の追記:水心子が「問い直し」て得た答えとは結局なんだったのか?
江戸末期から平安時代にかけて、水心子は「問い直し」に行く。
勝海舟に、太田道灌に、天海和尚に、平将門に。
しかし、前半の3人はハッキリとした答えを言うのを避ける。
その3人、そして最後の将門公の様子というか雰囲気から、なんとなく私は
「あ~違う違う、そんな難しい、まじめな、ちゃんとした理由じゃないんだよ」
という苦笑いというか気まずさというか、そういうものを感じた。
「人がなにかを成すとき、そこには必ず理由がある。それが大きな、命や人生をかけることならなおさら、信念があり考え抜かれた譲れない理由があるはずだ。」
きっと、水心子はそう考えたのだと思う。そして私たち後の時代の人間もそう考えがちだ。
でも、ほんとうにそうだろうか?自分の人生、なにかを決めるときに考え抜いた理由があっただろうか?譲れない信念があっただろうか?
そうでもないんじゃなかろうか。その場の勢いとか、なんとなく良さそう!と思ったとか。あるいは、人に言うのがはばかられるほど些細な理由とか。それは、過去を生きた偉大な人たちだった同じだったのかもしれない。
将門公が「惚れた女がいたからよ」と答えたときの、水心子と清磨の拍子抜けしたような「えっ」。でも、案外世界は、歴史は、そんな拍子抜けするような些細な人間の「気持ち」「想い」でできている。
勝海舟はその行動の理由を、最後には「旅がしてえ」と言った。国民を幸せにしたいとか国を豊かにしたいとかじゃなくて、「弟子と旅がしたい」。そんな、ただの個人の夢。想いだ。
きっと答えを濁した道灌も、天海和尚もそうだったんじゃないかと思う。あえて口にするのも照れてしまうような、そんな小さな、でも確かな想い。「好き」という気持ち。それが具体的になんだったのかは推測の域を出ないけれど、たとえば山吹の少女にまた会いたいと願ったとか、たとえば仕えた主人がきらきらと「ここを平和な街にしたい!」と願うからそれにほだされたとか、そんな。
そんな小さな小さな想いが、歴史をつないでいく。
近づいて直接会って話して聞かないと見えないような、あとの時代には忘れ去られるような想い。でもそれがあるから、歴史はつながった。
そういうことなんじゃないかと、思った。
謎④「呪い」と「機能」ってなんなんだ!
鶴丸は言う。
「この世界には、三日月宗近という”機能”がある」
そして光世は言った。
「俺の言葉に置き換えるのならそれは”呪い”だ」
さあ!考えていくからね!!
◆三日月宗近という”機能”
”機能”という言葉から感じる印象、それは
「本人の意思と関係なく発動してしまう能力」だ。
三日月宗近が持つ”機能”とその発動に、三日月宗近の「意思」は関係ない、というのが私の解釈。だってそうじゃなきゃ「機能」という言葉は使わないだろう。
そしてもう一つ同時に考えなければならない、三日月宗近の「性質」。
それが、将門公が言う「負けたものに寄り添いすぎる」こと。
泰衡に、義経に、弁慶に、信康に、将門公に寄り添いすぎる三日月。
では、果たしてこの「性質」=「機能」なのだろうか?
コレ、私は違うと思う。「機能」と「性質」は別だ。
たしかにこの「性質」は三日月としても本意ではないのかもしれないが、それでも「感情」が伴う。敗者に肩入れしてしまう、なんて判官びいきの日本人みたいな人間くさい性質を、鶴丸が「機能」と呼ぶとは思えない。
そこで思ったのが、
三日月宗近はその「機能」ゆえにその「性質」を持つのでは?
ということ。
つまり、「負けに肩入れしやすい」という性質の原因が「機能」なのだ。
では、なぜ三日月は「負けに肩入れしてしまう」のだろう。
それは三日月宗近の機能が「敗者を、負けるべき場所で負けさせる=殺す」というものだからではないだろうか。
「つはものどもがゆめのあと」で泰衡を説得し義経にけしかけたように、頼朝を操って義経を殺させようとしたように。そういう、「負け」を正しい場所で「負けさせる」のが、三日月宗近の意思とは関係なく発動してしまう「機能」なのではないだろうか。
「負け」に「負けさせる」には、絶対に「負け」と触れ合わなくてはならない。直接ふれて、例えるなら火をつける。燃やす。だから三日月宗近は、どうしたって直接触れその最期を見るがゆえに「負けに肩入れ」しやすい、のかもしれない。
(つはもので上記をやっていた三日月は自分の意思のように見えたけど、「そうせざるを得なかった」という解釈もできる)
ではなぜ、そんな機能が…?
◆それは”呪い”だ
まったくもう!みんな比喩表現ばっかり使うからわかんなくなるじゃん!
って一瞬投げだしかけたけど、幸いなことに光世は心覚本編で「呪い」の説明をしてくれている。
それは天海が入寂したあとの歌
「持て余した強さ それはもはや呪い」
だ。
光世の言う「呪い」とは「持て余した強さ」
つまり、三日月宗近の機能=「持て余した強さ」「持て余すほどの強さ」
さあ、では三日月宗近の「持て余すほどの強さ」って、なんなんだろうか。
戦闘力?知名度?
私は、「たしかなものである」という強さではないかと思う。
たしかなもの。それはつまり「歴史」、「勝者の語ってきた歴史」の「証拠品」だ。三日月宗近は存在が「たしか」でありすぎるために、「勝者の語る正史」を保証しようとする力が強すぎるのではないだろうか。
三日月の存在がたしかであることは、つはもので髭切が「君(三日月)だけがたしかだ」と言っていることからも分かる。
三日月は「歴史の証拠品」だから。正しい歴史を保とうとする力が強すぎるから。「負けをそこで負けさせる」という強さ、機能を持っているのではいだろうか。
本人(本刀)の意思を無視するほどに。呪いとも呼べるほどに。
↓大きな川と小さな川、放棄された世界、三日月の「機能」あたりの図解
ミニ謎:将門公はなぜ怨霊になった?
将門公が怨霊化するところで水心子が「これも呪いか」とつぶやく。
呪い、というと「三日月宗近」が出てくるが、これは「将門公」の「持てあますほどの強さ」を「呪い」と表現したのかも、と思う。
将門公は生前でも、時間遡行軍を撃退するほどの強さを持つ。それは三日月に接触したからかもしれないが、そうでなければマジで「人の身では持て余すほどの強さ」だろう。
だとすると、「人の身で持て余した、生前に使いきれなかった強さ」=「持て余す強さ」=「呪い、祟り」ということ、なのでは…?
なんというか、将門公が怨霊化する心情的な動機が良くわからなかったのよね。
朝廷に弓を引いたのは「惚れた女がいたから」。伝説では、将門公は惚れた女=桔梗の前の手引きで死んだとも言われる。
だからといって冷める、という人ではないだろうけど。「この戦、俺は負けるな?」と笑い「わしがここにいたことに変わりはない!」と言う人が、志半ばで死んだからといって恨んで祟るように思えない。
将門公は怨霊化したあと、
「徒花のままでは終われぬ」
と歌うが、まあ生前朝廷を倒すことはかなわなかったにせよ「徒花のまま=実を結ばず終わる」ことをそこまで悔いるだろうか。
これはどちらかというと、将門公(生前)としての意思というより、生前に使いきれなかった力の残り=呪い、の意思なんじゃないかなぁ。
それは将門公の意思に関係なく動くという点で三日月宗近の「機能」「呪い」に似ているし、だから水心子は怨霊化した将門公をみて「呪いか」とつぶやいた、ような気がした。
※平将門について知識が少なすぎるので、いつかちゃんと勉強してもっかい考えたいね。いつかね。
謎⑤あの「少女」はいったい誰?
㊗刀ミュ史上初!!舞台上の女の子!!!
彼女はいったい「誰」だったのか。
(※見た目から少女って言っちゃうけど、二人称は「あの子」「君」なので実は性別の特定はないのよね、道灌にかかわるとき以外)
◆少女について分かっていること
・水心子の見た「放棄された世界」にいた
・道灌に山吹の花を手渡し、死後は花を手向ける
・(水心子含めみんな)まだ出会っていない
・名前は知らない
・清磨が「どんな子なんだろう」楽しそうに言う
・歴史に残る偉業や発明をした子じゃない
・「そこで頑張っている子」
たぶんあの子は色々なものの象徴で、
あるいは道灌が出会った山吹の少女
あるいは歴史に名を残さない、でもそこに生きた人々
なんだろう。
◆あの子=いつか出会う=我ら
そしてやっぱり、ラストの明らかにコロナ禍の現在を意識した清磨と水心子の会話から、東京心覚の最後のセリフ
「きっと、そこで頑張っている子だと思う」
を聞くと、あの子=このコロナ禍の現代東京で頑張っている我々審神者、ととれる。
審神者っぽい、というのは清磨が「どんな子なんだろう」と楽しみにしていることも関係する。
いつか出会うのが分かっている、でも今は知らない。出会っていない。そんな「あの子」。それはやっぱり未来の審神者、の気がする。
って、ちょっとちょっと!矛盾してるじゃん!
あの子=現在の我々=未来の審神者って、どういうことよ!我々2021年に審神者やってるし早い人は2015年から審神者ですけど!!!
って、まあなるじゃん。
えっ、なに我ら実は未来から来てたの???ってなるじゃん。
そこでまず初めに思ったのが、あの子=未来の審神者、は我らのぐるぐるの先、つまり簡単に言えば「来世」なのでは。2205年なら今0才の審神者も大往生したあとだろうし、ぐるぐるを回ってもう一度「巡り合った先」が、あの子なのではないか。
そうすると、刀剣男士たちって2021年の我らのことなんだと思ってるのかなって考えたときに、「未来の、来世で主になる人を探している」のかなって。一瞬そう思ったわけ。
・・・いやでも、ミュ本丸には審神者(イケボ)がいるんだよな。ミュ本丸の時空がいつかは分からないけど、2205年以降(たぶん)に主がいるならわざわざ次の主を探しにくるか?
って考えて、結果が以下です。
◆我らは今「審神者」で、ぐるぐるの先も「審神者」説
これはもう解釈っていうより妄言の類なんだけど。
2021年現在の我ら審神者って、「元の主」なんじゃないかなぁって。
つまり、2021年現在我らは審神者だ。彼らの主だ。間違いない。だってみんな「あるじー!」って呼ぶもん。間違いなく「主」だ。
じゃあミュ本丸審神者(イケボ)はなんなのか。これ、あんまり深く考えてなかったけど実はずっと気になってたんだよね。まあ我ら側審神者がいっぱいいるのはいいとして、ミュ本丸審神者の「主」と我ら「主」は両立すんのかよって。
これ、もしかして
2021(2015~)年の審神者が「我ら」
そんで、我らが大往生したあと
2205年~の審神者がミュ本丸審神者
で、ミュ本丸審神者が大往生したあと
我らの来世=ぐるぐるの先=次に降る雨、で、
また彼らと出会うんじゃないだろうか。
(2205年から見た)前の主=我ら、で、2205年の主がイケボ審神者
というのは、両立できるから。
確かに今(2021年)の彼らにとって我らは、名前を知らない人だ。
『問わず語り』で歌われる
「忘れるあのひとの名前 忘れるあのひとのぬくもり」
の「あのひと」が、つまり我らなのではなかろうか。
そうだ。我らはいくら客降りでファンサをもらおうと、きっとハッキリと顔を覚えられることはない。名前を覚えられることはない。ぬくもりを覚えられることはない。(ローチケとDMMの購入履歴に記録は残るけど)
でも我らはそこにいたし、我らが振ったペンライトのあかりはきっと彼らの「瞼の裏でゆれる残像」になって、我らの歓声は「意味の奥でくすぶるうた」になるのではないだろうか。
そうして我らは大往生し、「ゆっくりじっくり」のぐるぐるの中にいる間、彼らはミュ本丸で生活し。そしてミュ本丸審神者が大往生しぐるぐるしているころ、また出会う。
つまり、たとえばうちの初期刀の加州清光なら来歴が
沖田くん⇒私(2015〜)⇒ミュ本丸審神者(私死後〜)⇒私の来世(ミュ本丸審神者死後〜)
ってなるということ。刀だったころと刀剣男士だったころの来歴をごちゃまぜにして。
2021年時点に来たら、彼らの主は「我ら」で。
2205年以降に戻ったら、彼らの主はイケボ審神者で。
そしてそのあと、また我らは彼らの主になるんだ。
ちょっと宗教的な話になるけど、来世に望みを持つというのは精神衛生上とても良い。なにも解決しないけど、でもなにかしたって解決しないこともある。
そういう「現在」を生きる我らにとって、今私たちは彼らの「あるじ」で、そして生まれ変わってまた出会って「あるじ」になる。っていうのはすごく、すごく救いだと思う。
そりゃ歴史変えようなんて思わなくなるよね。
だって歴史を変えたら彼らと出会った2015年も、もう一度彼らと出会う未来=歴史も変わっちゃうかもしれないから。
それは困るじゃん!だから、現在で笑って、来世も楽しみにしながら。歴史を変えようなんて思わずに生きていくんだろうなぁ。
ありがとうな!刀剣乱舞!!!!!
凱旋公演観劇後の追記:刀ミュにおける「メタ視点」の重要性
初観劇、そして初日の配信映像を見たときももちろんメタ視点で見る部分はあった。山ほどあった。
そして先日、東京に帰ってきた「東京心覚」を改めてみて、ああこれはメタ視点で見ることで成立するお話だな、と確信した。
メタ視点で見ることを前提とする作品について、賛否はあると思う。個人的には好きだけど、エンタメという架空の世界にメタ視点というリアルを持ち込んでほしくない!というのも理解はできる。
だけど、今のこのご時世、それがなんであってもメタ視点抜きで見ることは難しいと思う。それが特に演劇という、この情勢に左右されやすいものであれば。だから初めから、メタ視点を込みにして作った作品なのかな、と。
と、思うと同時に、でも刀ミュってそもそもメタ視点を大事にする作品だよなと思い出した。
例えば歌合の、表と裏の小狐丸。あれはもちろん事情を知らなくても楽しめるが、事情を知っているからこそ「あのイレギュラーをエンタメに昇華する懐の深さ」に感動できるものかなぁと思う。
見る側にいるとあんまりよく分からないが、作り手や演者はみんな何度も何度も「お芝居は、見る人がいて初めて成立する」と話す。そう言うから、きっとそうなんだろうなと思う。
そして刀ミュにおける私たちは単なる観客ではなく、明確に「審神者」で。見る人であると同時に、出演者なんだと思う。それはこの状況下になるずっと前から。
メタ視点は重要なはずだ。だって舞台を作るパーツのひとつである「審神者」の感情なんだから。だからいつも大事にしてくれるんだと思う。
そういうエンタメを作り続けていた刀ミュにとって、今回の「メタ視点込み」を前提とした心覚は、その刀ミュの心意気がより強く出た!ってだけなんじゃないかなぁと思った。今回が特別というより、いつもそうで今回はちょっと強かったってだけの話なんじゃないかな。
そんな、いつも我々のことを「あるじ~!」と呼んで一緒にいてくれる刀ミュだから、こんなに幸せなんだろうなぁと思いました。
最後に残った謎をメモしておく
①にっかり青江の旅
旅の目的=今の戦力じゃ足りないから旅に出る=戦力増強
これ聞くとどう考えても修行なんだけど、にっかりくんは何も言わずに修行に旅立ったの…?そしてこれは単純に単騎への伏線と考えていいの…?
②江の「役割」
「人と人ならざるものの架け橋となれ」
あまりにも情報が少なすぎて分からん!
まずは江の「取り戻した記憶」がすごい気になる。
さすがにこれは次回作の伏線=答えが用意されているもの、だと思うので楽しみしてる。
人と人ならざるものをつなぐこと≒神事=祭り=コンサート!
とかだったら楽しくてイイなぁと思うけどどうでしょう???江6振出陣を楽しみにしている。
③人の身で時間遡行軍に勝てた天海と将門公
人の身で時間遡行軍と対等に渡り合える前例としては、信康がいる。
そう考えると将門公も、三日月を怒鳴りつけてやったとはいえ三日月からなにか「遡行軍と戦える力」みたいなものを授けられた可能性…?
ただ(正史の)天海を知っているソハヤが「あれぐらいやるだろうさ」って言ったことを考えると、素のポテンシャルなのかもしれない。
④「幕末は三日月の介入が薄い」理由
前述
最後にこれだけは伝えさせてほしい
もしここまでこのクソ長文を読んでくれた人がいたなら、最後にこれだけは伝えさせて欲しい。
あのね。
初日配信カメラでは抜かれなかったけど、雨さん、座るときにしっぽを踏まないようにしっぽをペッと払ってから座るのがマジでもうめっっちゃくちゃかわいいのでお願いだから見て!
※5月23日追記
22日のソワレを加州清光役の佐藤流司くんが観られたようで。
先日天狼2020の円盤が届き改めて見ていたんだけど、あの千秋楽の清光の挨拶「俺たちは、このあとの時代が明るいって知ってる」は、なんだか心覚のプロローグのように聞こえた。
心覚は1部2部どちらも、このあとの時代が大丈夫なことを知っている刀剣男士が私たちに「大丈夫だよ~~」と言いに来てくれるお話だったと思う。だからそれはパライソが中止になったあと、コロナ禍で初めて始まった天狼2020から始まっていて、音曲祭を経て、心覚で本編として語られたのだと思う。
そういえば音曲祭で豊前と桑名に「気をつけていってらっしゃい」と言い、見送ったのは清光だったなぁと思いだした。
心覚のプロローグを語った加州清光、の肉体である佐藤流司くんが観て、そうして心覚は完結するんだな。ここまでこれて、ほんとによかった。
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