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Yちゃん

年代柄、いつも同級生は多くて、入学した高校での一年生の時のクラスは12組でした。

私は一年生から既にひねくれていて、最初の遠足では若草山を登ったのだけれど、その後の感想文に『ただ山をしゃべりながらダラダラと登って降りてくる事に意味を見出せない。なんと徒労である事か』などと書いたもんだから、熱き若者のあるべき姿を信じて疑わない担任の社会科の先生は学級通信に晒した挙句、自ら楽しもうと思わない者には楽しみは訪れない、などと評したので、つまらん返答しか出来ない大人だな、同じ目線で言い返すなよ、と、つまらん感想を書いた自分は棚の上に腰掛けつつ、あぁ高校生活のスタートは上々とはいかないようだと思ったわけです。

そもそも12組ってキラキラ輝く3組とか、5組とかに比べてクラス選から漏れた寄せ集め集団に見えるところも、耐震性能の概念が微塵もない旧校舎を10、11、12組はあてがわれ、挙句鶯張りな床も含めて、期待にそぐわない春の緊張を歪んだ形でしか表現出来ない、遅れ気味の反抗期を謳歌していたのです。

出席番号の関係上、席が近くの級友から会話を始め、陽気だけど、めちゃくちゃ早口で、ツッコミがいつも辛辣で、人の会話を最後まで聞かずに自分で結論を出してしまうYちゃんは私の斜め後ろの席で、なんとなく仲良くなり、バカな話をしたり、テストの点を競い合ったりいい友人になりました。たぶん秋前、今思えば部活があんなに厳しくて忙しかったのにどこにそんな時間があったのか、“あんたのこと好きやねん、な、付き合えへん?”と告白をされ、“彼女がいる高校生”への憧れがあったかなかったかで、あっさりと、ほんまやね、付き合おうとOKをしたのでした。とはいえ超絶ウブな高校一年生だったものですから、電話で話す程度の間柄。最初のデートは映画で、天王寺のアポロビルのアポロシアターにターミネーター2を観に、次のデートは吹田のエキスポランド。大阪の外れの田舎者同士だったので、難波から御堂筋線に乗って北急の千里中央、モノレールで万博記念公園駅まで移動するのはなかなかの冒険で、乗り換えはもう必死。少しカッコつけたかった私は目だけをギョロギョロ動かし、案内表示に集中してスタスタと歩いたもので、Yちゃんは『こんなとこ迷わず歩けるて、あんた凄いな』と言ってくれたものだから、まぁ、彼女は優しかった訳で、長距離移動と緊張と絶叫マシンとでクタクタになって帰りの電車は二人とも爆睡。彼女は私の肩にもたれてスウスウと寝息を立ててました。後日、学校でそっと渡された手紙はA4いっぱいに渦巻き🌀が描かれてて、それを罫線にして、ありがとうありがとうありがとう…と綴られてました。妙に明るい姿も早口なのも結論を聞こうとしないのも恥ずかしかったんですよね。照れ屋だったんですよね、彼女は。今なら分かる。

勉強はしない能天気な公立高校一年生だけど、部活は厳しく、余裕の無くなる私は当時たぶん、Yちゃんどころではなくってきて、少しづつ、距離が出来て来ます。恋の澱みって高校生の心を激しく削り、いつも明るかったYちゃんも明らかに表情が重くなり、クラスの女子からも「おいーなんとかしろよー」と言われるようになり、気持ちの処理が全然うまくいかなくなった私は、「ごめん、うまく付き合えないや。終わりにしよう」と別れを告げたのでした。12/21だったはず。Yちゃんと私の誕生日。偶然、二人は同じ生年月日だったのでした。

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“お仕置き三輪車のエレクトリカルドライブ”に投稿したお便りより