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ローマン体のロマン ー「トラヤヌス帝の碑文」をめぐる旅ー

ーすべてのローマン・アルファベットの永遠の源ー


この世には、どの専門書にも「原点」と称される、実に美しい文字がある。
大学一年生のときに、初めて「トラヤヌス帝の碑文」を見たときのショックは言葉にできない程だ。食い入るように画面を見つめていたことだけが、はっきりと思い出される。教授はどんな話をしていたのだろうか。そもそも周りで音はしていたのだろうか。それほどに魅力的だった。一瞬にして、私はその文字の虜になってしまったのだ。

常日頃、タイポグラフィに関して、自ら神経を尖らせるよう心がけているのであるが、形や組みを意識するばかりでは、到底埋めることのできない何か大きな溝が残っていることに、長いこと目を背けていた。それこそが、「文字のロマン」であることに気づくきっかけとなったのが、この授業、私にとっての「印刷概論」なのである。


まずレポートの研究対象としたものは、「トラヤヌス帝の碑文」が、いかにして現代までその形を伝え続けているのか、その流れについてである。

調べているうちに、驚くべき事実が浮かび上がってきた。
「トラヤヌス帝の碑文」には2度の消滅と2度の復活があったのである。

そもそも「トラヤヌス帝の碑文」とは、西暦112~113年の間に制作されたローマの古い遺跡に彫られたもので、今でも現地に赴けば、ひっそりとたたずむその姿を確認することができる。「トラヤヌス」とは、この遺跡を造らせたローマ帝国の五堅帝の1人、マルクス・ウルピウス・トラヤヌスの名からきたものだ。

この碑文が、すべてのローマン体の「原点」と称される理由。
それは、他の追随を許さない、完成された字形とスペーシングにある。
そして、もう一つ。この文字が2000年もの間、注目され続けている理由がある。アルファベットのA~Zまでの文字が、ここまで多く残っている碑文が、ほとんど残されていないのである。
この碑文が造られてからのち、約1300年、後期ルネッサンスまでの間、トラヤヌスの大文字はさほど大きく取り上げられることはなかった。この状態はある意味で「第一の消滅」という言葉で置き換えることができるだろう。
一方で、8世紀には、大文字の影響を受けながら、各地で多様に変化していった小文字の文化をフランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)が文教政策によって統一する。こうして生まれたのが、現在の小文字の原型ともなる「カロリンガ・ミナスキュール(カロリンガ王朝の小文字)」なのである。

しかし、やはり運命とでも言うのだろうか。ルネッサンスの文芸復興に影響された書体の変革活動(※1)によって、あの美しい書体が再び姿を現すことになる。

※1ルネッサンスとは、中世までのキリスト教中心の社会に対して、ギリシャ、ローマの古典を新たに解釈することにより、神を中心とした世界観から人々を解放し、人間の尊厳を取り戻そうとする運動。
この運動を興した人文主義者たちが、ギリシャやローマの古典を探し出し、次々に出版していくなかで、キリスト教が力を持ちすぎていた時代の文字、つまりは写字生の文字(ブラックレター)は、内容に相応しくないということで、できる限り古い文字が求められた。こうして、ローマ時代に刻まれた大文字とカロリンガ王朝の小文字が組み合わせられ、「ヒューマニスト」とよばれる書字法が誕生するのである。ここで生まれた大文字と小文字の関係は、現在まで連綿と続いている。

当時の人文主義者たちは、ローマ時代の大文字は幾何学でできていると考えていた。そして、それは不透明であいまいな神の力ではなく、古代に培われた普遍的な人間の叡智、つまり数学によって作られていたのだという解釈に基づいていた。そのため、能筆家フェリス・フェリチアーノや数学者ルカ・パチョーリの記した書物を見ると、当時の大文字はほとんどが定規とコンパスを用いて書かれていたことがわかる。しかしながら、実際の碑文はすべて一度手書きされた後に石の上に掘られていたのである。そのことに初めて気がついたのは、ジョバンニ・フランチェスコ・クレッシという人で、彼は著書「おおくの文字をそなえた手本」のなかで次のように語ってる。
「ローマ大文字を円と四角形だけで構成する必要はない」もちろん、当時はこれに対してかなりの反発があったようだが、こうして下にあげた書体を見れば、クレッシの書いた文字がどれほど、のびやかに書かれているか想像に難くないのである。

それまで、幾何学の形に支配されていたルネッサンスのトラヤヌス帝碑文は、こうして文字としての本来の輝きを取り戻すのである。これが一回目の復活なのだ。
そして、さらに、その運命性を膨らませることがある。
時を同じくして、ドイツではヨハン・グーテンベルクが活版印刷を発明し、同じ形の文字が大量に社会に流出していたのだ。これにより、この時代に作られた文字形象が今日に受け継がれる結果となったのである。


しかし、16世紀の中頃から17世紀の中頃にかけての一回目の復活以降しばらくの間、「トラヤヌス帝の碑文」は再び時代に取り残されてしまうのである。この背景には、産業革命による産業主義の考え方や歴史的模倣による混乱がある。この時代のポスターを見ると、一枚の紙面の中に数えきれない程の書体や装飾が詰めこまれている印象をもつだろう。こうして基準を失い、視線を誘導することに重きが置かれたことが、粗悪な書体の氾濫を招いてしまったのである。この混乱の時代は「ヴィクトリア朝のタイポグラフィ」と呼ばれ、これを一掃するために、再び「トラヤヌス帝の碑文」はその姿を現すことになるのだ。

二度目の復活にはイギリスの研究者が中心となって関わっている。しかし、ひとつ不幸だったことは、当時ロンドン中央美術工芸学校でのレタリングクラスに任命されていたエドワード・ジョンストンが書いた本「書写と飾字とレタリング」に紹介された「トラヤヌス帝の碑文」の複製写真を多くの人が、その写真をもとに研究を始めてしまったことにあった。しかも、この複製自体が、ナポレオン3世の指示で作られた複製の複製であったのだ。当然、写真の文字のプロポーションは、重大な欠陥を抱えていたのだ。
この欠陥を指摘したのが18世紀のエドワード・カティチというカリグラファー。彼は「トラヤヌス帝の碑文」の拓本からすべての文字を検証して線画で起こし直し、『ローマの「トラヤヌス帝の碑文」から起こした文字』という本を著した。カティチはこの本の中で、写真を頼りにして「トラヤヌス帝の碑文」に対し、誤った見解をもつ研究者たちに、このように問いかけた。

「なぜローマを訪ねないのですか」

このようなカティチの熱心な研究により、トラヤヌスは2回目の復活を遂げるのである。


時代が進み、デジタル化された世の中にあっても、手書きのもつ実に鮮やかな文字の抑揚は今なお人々を引きつけてやまない。

碑文を巡る壮大な旅はこれで終わりだが、歴史を俯瞰することにより、満たされつつあるこの大きな溝が、私自身の文字に対する思いをより一層掻き立てはじめていることは言うまでもなかろう。


参考文献
文字講座 誠文堂新光社 文字講座編集委員会
印刷博物誌 凸版印刷 印刷博物誌編集委員会
世界のポスター その歴史と物語 マックス・ギャロ

(2009 印刷概論レポートより)

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