朕の怠惰な十二年間の受験勉強について🤡

さて、朕の怠惰な十二年間の受験勉強について話そう。しかしその前に朕のご両親の受験歴を晒す。父上はコウリツチューからの推薦高校推薦Fラン大学。母上は経緯は知らぬが父上と同じFラン大学。もっとも読むにあたってこの情報は必要ないが。それでは本題に入ろう。


幼少期の苦悶🤓



あれは朕が物心付く前、幼稚園の年中さんのときであった。朕は近所の苦悶式にぶち込まれ、そこで一般BBAと対面した。そのBBAはきっと朕には合わなかったのだろうか、一度か二度程通ったあと別の苦悶式監獄へと収監されることになった。今となっては場所もわからない。あの黄緑色に白と少量の赤の絵の具を混ぜたような濁った色の机、そして全ての色がないまぜになった内部の空間の記憶がほんの少し残っているだけだ。

二番目のBBAは頭が少々いかれていた。あの監獄は朕が通うことになる公立小学校の近くにあるのだが、そこのBBAはどうにも戦闘民族らしく、サボりをしたり、苦悶プリントをやってこないクソガキにキレ散らかす音が監獄の外まで漏れ出ているような有り様だったそうだ。当時からクソガキを𠮟り倒せる大人は貴重な存在であり、BBAと保護者は案外仲が良かったのがまた得体のしれなさを醸し出していた。

とにかく、朕は齢五歳ほどにして何の罪を犯したかは知らないまま監獄行きとなってしまったのである。最初は「ズンズン」という名前のペンを握る訓練を受け、その後は算数と国語、受刑者によっては英語のプリントをこなしていくことになる。

最初は順調だった。四則演算も国語の筆記も簡単としか言いようのないものであって、同時期に収監された弟と同じ時間に教室に入り、そして同じ時間に出る。貰った課題もすぐに終わって後の時間はひたすら3DSとにらめっこをしていた。

しかしある日"詰まり"が起こった。国語のプリントでのことであった。記述が"分からない"のである。当然朕は採点係のBBAに助けを求めた。何度か再提出してもBBAは正誤の判定しか教えてくれない。曰く、自分で考えろ、と。取り付く島もないとはこのことである。

それ以来、そのBBA、いやボスBBA以外のすべてのBBAがロボットにしか見えなくなってしまったのだ。この冷徹さ、まだ小学生の朕にはあまりに恐ろしかった。ただ無感情に突き放され、苦悶の"プリント"という暗闇の荒野を一人で踏破しなければならないことに気付いてしまったのである。当然一歩を進めなければ次の一歩はなく、右足のあとには右足を出せない。ここから朕の"苦悶"が始まった。

幸いなことに、算数ではあまり"詰まる"ことがなかった。ミスは大抵一回で正せる。ただ牛歩であったが。
国語、これは何度も"詰まった"。何重にも否定され、しかし全てを書き、消し、書き、消し、…の絨毯爆撃をするには根性が足りなかった朕は、遂に座りながらの"寝そべり"を始めてしまった。朕の弟は本当に寝ていて、終いには早々に脱獄してしまったが、朕は上体を起こし、窓の方に顔を向けて夢想に浸っていた。

BBAのつんざくような叱責の声が聞こえてくると朕は再び国語のプリントに目を向け、存在しない解答を探しているふりをして、ググッと脳みそに力を入れることによって解答を捻出した。三角は激アツ。この時点で八割あっているからだ。該当の箇所を再読し、朕には不要と思える部分を継ぎ足してやると丸が降ってくる。あの赤ペンには血が通っていた。丸には心を躍らされたし、バツには朕の人生そのものを否定するような力が籠もっていた。あのペンは採点BBAの腕の脈に繋がっていて、そこから血のインクを供給しているためBBAには温かみがないのではなどとも考えた。顔の白い囚人仲間は適当に流してきた。嗄れた声の囚人仲間は鼻で笑った。

そしてここに懺悔を。朕は本当に"詰まって"しまったプリントを折りたたみ、ポケットに隠すことで難を逃れたことがある。あそこで生じた卑怯さへの怒りや哀しみ、そして恥ずかしさは未来永劫消えないだろう。

それ以来朕はプリントに対して誠実に取り組むようになった。しかし怠惰な性格は変わらないので勿論寝そべる。そして八時になればBBAにも家庭があるのでプリントがまだ終わっていなくても一時的に釈放される。このとき得た引き伸ばし癖は一生朕に付き纏うことであろう。そして大学受験にも多大なる影響を与えたのである。


武蔵まみれの中学受験👹


小学四年生の後半頃、親が中学受験というものを打診してきた。当時の朕は苦悶のプリントと3DSの他には何も知らない。よくわからないまま同意した。馬渕という塾があるらしい。苦悶の他に塾と呼ばれるものがあるのか。

というわけで入塾した。国語、算数、そして理科。朕は軽量三科目受験をする計画が立っていたらしく、社会科を受けることはなかった。国語は苦悶式で鍛えられた読解力でサクサク解けるが、算数は甘くはなかった。要求されるレベルは想像以上に高く、当時生徒へのパワハラまがいの指導が原因で左遷されていたと噂の算数教師による熱血指導が始められた。

授業が終わると朕は何故か廊下に用意された席に座らされ、そこで算数の問題集の武蔵を求められた。朕と他の受刑者一人で作業をしている教師を挟み込む形だ。謎の環境。朕は大して優秀ではなかったが、標準と発展の狭間くらいの層であったのでそこから五年の終わりくらいまで図形問題集とソウモンの武蔵を続けた。特に五年の後半では六年の受験直前のセンパイ達と同じ部屋に入れられ、場違い感と独特なプレッシャーを受けながらの武蔵となった。

さて六年になった。武蔵は続くよどこまでも。あいも変わらずパワハラを尻目に武蔵武蔵。そしてよくわからんまま教師に従って武蔵していたら第一志望(別に志望していたわけではない)のプリズンに合格した。父上は喜んでいたが、そんなことより3DSとのにらめっこの方が万倍快い。後はお下がりのスマホで2ちゃんまとめとなろう小説を読み漁るのもよかった。何も良くはないが。


チューコーイッカン深海魚🐟



中学生になった。しかしここで周りの人間の頭の良さに圧倒される。滑り止め勢が無双するのを横目に朕は下のクラスに落ちた。

ここから五年、虚無である。ネットサーフィンと逃避の読書以外にすることがないのでぼんやりと勉強はしていた。するとどこのタイミングかは忘れたが、上のクラスに再び戻ることができた。特に知り合いもいないので周りが勉強したり話したりする中黙って本を読む。

周りからは得体のしれない這い上がってきた復讐者として認識されていたのだろうか。しかし朕は勉強なんてやりたくないので受験勉強は牛歩で進めてゆく。マーク形式はたまたま得意だった。共通テストの本試験では得点率が約86%という(朕にとっては)好成績を記録するも、それが中学までの資産を食いつぶした結果であることは朕には自明であった。記述式の模試では第一志望(別に志望していたわけではない)の大阪大学の判定は常に"E"を取り続けていた。

さて二次試験。テストが配られると気分が上がり、お得意の過集中が発動する。そして自分の実力以上のパフォーマンスを発揮し、無事不合格となった。

敗残兵🤕の言い訳


敗因を分析しよう。複数考えられるが、朕にとってそれらは「塾に行く」だけで解決されたように感じられる。巷ではプリズン系と話題の母校も、実のところそこまで管理教育をしてはくれない。定期テストのその場しのぎの勉強はなんの役にも立たず、合格実績を伸ばすことに死力を尽くしているかと思われた母校は受験というものに対して狂っていなかったのだ。どちらかといえば精神の涵養などという無駄に高潔な理念を掲げており、成績優秀者は普通にお塾に通っていた。

人の生き方はそうそう変えられるものではない。特に朕の性格は怠惰で几帳面というひねくれたもので、これは素直に暴力的な指導でしかどうにもならない。管理教育型の塾、それもぼやぼやしていたら檄が飛んできたり、冷徹に置いていかれたりバカにされて反骨精神がメラメラと湧き起こるような塾へと通うべきであった。

朕は怠惰である。怠惰であるがゆえに深層心理では抗いようのない強制力を欲している。精神的な自立の話ではない。ただ単に、そうでないと動くことができないのである。生きてゆくだけなら可能である。最低限の上昇志向やバイタリティも持っていないということはない。ただ、がむしゃらに"高み"を目指して臥薪嘗胆するにあたっては補助が必要であったというだけである。朕一人では牛の歩みである。だから杖が欲しかった。ただ一本の杖があれば朕は砂漠をも両断することができる。しかしタイムアップが来てしまった。それだけだった。




……今は中期後期の結果を待つのみである。共通テスト利用で同志社大学という私立の大学には既に合格しているそうだ。両親に頭を下げ、入学金を支払ってもらった。浪人はしない。可能性は未知数であるが、ゲームチェンジの時間だ。膨れ上がったプライドには目を背け、けたたましい破裂音の予感には怯えながらも朕にはどうすることもできない。これは不合格体験記である。中期後期で滑り止まっていたとしても、仮に前期で受かっていたとしても。朕の人生が不合格そのものであったのだ。

さあここで朕の夢を話そう。朕は小学生の頃夏目漱石の『三四郎』を冒頭だけ読み、京都大学の地下室で命の限り研究を続ける聡明な理論物理学者になりたいという夢を抱いた。そしてそれが叶う日は未来永劫訪れることはないだろう!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?