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【書く習慣】#13 「弔問外交」という言葉の違和感

安倍元首相の一件から日本では「民主主義」「調査」「国葬」「弔問外交」がキーワードかのように何度も何度も発せられてきた。
テレビでも新聞でも。
もはや知らない言葉ではなくなったはず。

政治には無関心な人でも「弔問外交」という言葉を一回も聞いたことがないという人はいないんじゃないかと思う。

実は、私はひっそり「弔問外交」という言葉に腑に落ちない何かを感じている。
ここでは、国葬への賛否などは一切無視して、言葉の意味と思うところをゆっくり考えたい。

弔問とは、[名](スル)遺族を訪問して、くやみを述べること。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BC%94%E5%95%8F/

外交とは、
1 外国との交渉・交際。国家相互の関係。ディプロマシー。
2 外部との交渉・交際。特に会社・商店などで、外部に出て勧誘・受注などの仕事をすること。また、その人。「―販売」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%A4%96%E4%BA%A4/#jn-35765

まずは、それぞれをネットの辞書で調べてみた。
この辞書では「弔問外交」という言葉で検索をしても何もヒットしない。

弔問外交(ちょうもんがいこう)とは、元首や政府要人などの死去に伴う葬儀(国葬を含む)において、各国の政府要人らが会葬する機会を利用して展開する外交のこと。一般には各国からの弔問団の派遣を受け入れる形で多国間で行われるものを指すが、緊張関係にある二国間で弔問団の派遣と受入れが行われる場合も弔問外交と呼ばれる場合がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%94%E5%95%8F%E5%A4%96%E4%BA%A4

なんでもヒットするウィキペディアで調べると、上記のように出てきた。
興味深いのは今まで弔問外交だろうとみられている歴代の人々。
一部の人は具体的にどのような人が参列したのか書いてある。

私がなぜ「弔問外交」という言葉にもやもやしたものを感じているのか……
これは主観であり、個々の感じ方が大きく左右しているものだと、自分でも理解している。

「弔問」は、亡くなった人に対して、お悔やみを述べる場。
よくいう「最後のお別れ」
そして、ご遺族や関係者にとって大きな悲しみの場である。
どんなに遺恨を残した相手でも、この時ばかりは失礼を働いてはいけないはず。
(もちろん、普段ならいいというわけではない。ただ、人間関係は複雑なもので、普段はうまく行かなくてもこの日くらいは、という意味で)

「外交」は諸外国との関係を作ったり、問題解決に働いたりする手段。

これが、私の基本的な印象。
だから、このふたつが合わさって「弔問外交」というと、「遺恨はあるけど、この時は一旦横に置いて私も喪にふくしましょう。仲が悪くてもこの時は同じ悲しみに寄り添いましょう」という日に「よーし、外交の場として利用しよう」が合わさっているように感じるわけ。
仲違いしている国がどうにか関係性を回復するためには「一旦横に置いて」と考えられるこの時をきっかけにするのは理解できる。

では、日本はどうだろうか。

まず、最初に岸田総理は「安倍元首相の国葬は弔問外交の場としても必要」という立場をとった。
でも、日本に弔問に来る可能性があった国々は日本と友好関係が築けている国が多かった。
少し立場が難しい国もあったのかもしれないが、故人の弔問の場を最大限利用してでも関係性をどうにかしたい!というほど切羽詰まった相手が来日するのだろうか。
だとしたら、そのように話をしてもらえる算段はあったのだろうか。

一部報道では参加表明している国が非常に少ない、主要国は返事すらしていないという始末。
こうなると、弔問そのものもだが、利用しようと目論んだ外交は全くなされない。
相手がいないのでは外交はできない。

ただ、日本がホストとなるので、これを弔問外交と呼び「来てください」「外交に利用しましょう」と言っても、自分がいいなら好きなようにいえば?とも思う。

並べて話すようで気が引けるがイギリスはどうだろう。

岸田総理のイギリス渡航は無くなったが、当初「弔問外交」という言葉を使って、エリザベス女王の国葬に参列する意向を表明していたような……
でも、これって「女王の弔事に外交もしよう」と言っているようには感じないのだろうか。

もし行っていたとして、現地に行って様々な要人と会うことで「結果的に」外交につながった、ということはあったかもしれない。
でも、最初から外交をしようという意識を持って参列することに違和感がある。

外交は気にしないで、今回は故人にお悔やみを述べるので精一杯。
関係者、故人に思いを馳せる人の悲しみに寄り添いたい、くらい切り離して考えられないのか、と思ってしまう。

実際に今回は他国も外交の場としては捉えていなかった様子。
日本からも「外交」と前のめりになるような様子を微塵も感じることのない、政治とは一線を画したお二人が招待されたと聞いて心底安心した。

そして、テレビ中継を見た限り、何事もなく穏やかに最後の時を過ごされたようで。

さて、日本では「国葬」という名の何かが約1週間後に迫っている。
警察の厳戒態勢が敷かれる、どこの国の要人が来る、いろいろ様子が変わってきているように感じる。
ただ「外交」目的で弔問をおろそかにするような人は来るんだろうか。

今回の国葬に関しても「弔問外交」と息巻いているのは日本くらいなのではないだろうかと思ってしまう。

感じ方、意地悪な考え方をしているのかもしれない。
重箱の隅をつつくように嫌なところだけをピックアップしているのかもしれない。

でも、日本はこれからも「弔問外交」という言葉を当たり前に使っていくのだろうか。
何とも相手に対する敬意が落ちてしまっているかのようにも感じるこの言葉を諸外国に対しても使うのだろうか。

言葉には人柄が出る。
言葉には魂が宿る。

時には「考えすぎかも」と思うくらいに考え、慎重な言葉選びをしてもいいのではないか……勝手ながらそう思ってやまない。

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