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弊社が自転車屋さんになった件

 日本に生まれて40年間日本に住んで、日本語と日本食をこよなく愛しており、大学院は生物物理で学位をとった。幼いころから外国には強いあこがれがあり、海外旅行も沢山行ったし、英語もそれなりに頑張った。キャリアは外資系証券会社のITから塾講師を経て専業主婦。10年前に子供を授かってから洋裁と刺繍を始めて5年前に一念発起してコロラドに刺繍会社を起業した…っていう私は我ながらレアキャラだと思う。レアキャラは、いつだって少数派・マイノリティに分類される。
 日本にいた時だってそうだった。外資系ITで外国人の同僚とやっていくのは刺激的で面白かったけれど、今思うと敵地で闘っているような気持ちだったし(当時の写真を見ると目が吊り上がっている)。いわゆるリケジョだった私は大学・大学院と女子が驚くほど少なく、ちやほやされて、今思うとあの時が人生最大のモテキだったと思うけれど、やっぱり男性社会でそれなりに認めてもらうために片意地張って生きていたと思う。珍しがられるのも悪くないけれど、レアキャラは、同意を得にくいという欠点がある。そしてボッチになりやすい。
 今、コロラド州デンバーで会社をやっている日本人の子育て中アラフィフ女もレアキャラだ。会社で社員はいるけれど、立場が違うのでそんなに仲良くならないし、家庭があるから飲みにもいかない。仕事が忙しいし理系出身で我ながら人見知り、友達はたいてい無機質なコンピュータやミシンやバイオリン。白人が大多数の娘の学校でママ友なんて作れない。デンバーにだって日本人コミュニティはあるけれど、大学からこっちにいる人も、旦那さんが駐在でこちらに来てるきらびやかな奥様も、私にはしっくりこないのだ。

つらつらと言い訳がましいことを書いて、悲観的になっている私。ちょっと恥ずかしいのだけれど、私は今、そうとうなぼっち感満載の人になってる。

 最近じゃ、Kindleという素晴らしい道具があって、Amazonで日本の本もワンクリックで手軽に買える。活字不足になることもない。日本食も大好きだから、手に入らないものはあんパンも肉まんもちまきも、みたらし団子だって作る。ヒジキの煮物だってきんぴらごぼうだって作れば食べられる。日本にいる母や姉ともすぐに無料で話ができるし、日本の友達とラインで話もできる。人と会って日本語を話したければ、日本人コミュニティに参加すればよい。

でも、そうじゃない。ぼっちに必要なのは
私の好きな百田直樹とか池井戸潤とか江戸川乱歩とか読んで、「これ読んだよー」「へぇ、この人面白いの書くよね」「こっちもおもしろかったよ」って次の道を照らしてくれる話し相手や「こういうの作ってみたから食べてみてー」「あ、おいしい。私週末あれつくった。おいしかったよ。」とか共感してくれる人が今、実際にココにいることだ。

先日、娘の通う地元の学校で最近引越した日本人女性に出会った。かなり親近感を持って話しかけた。

その人「ニューヨークから引っ越してきましたー。大学からずーっとアメリカなんですぅ。あちらは物価が高いから、あちらで2LDKかうお金でこちらで4LDK買えるからぁ。オタクは?」
私 「私たちは5年前に夫の地元のココに引越すために起業しましたー」
その人「へー、すごいですねー」
私「いや、でも、自転車操業でぇ、大変なんですよー」
その人「あら、自転車屋さんなんですかぁ。」
私「あのぅ…」
その人「私たちもアウトドアとか好きなんですー。サイクリングもぉ」
私「いや、そういう事じゃなくて…」
その人「今度、おすすめの自転車あったら教えてくださいねー。」
私「…」

なにも言い返せず、帰宅してからずっと悶々としていた。

「自転車操業」の意味を知らないって事は、きっと日本語に親しまない方で、こちらの生活が長くて、ニューヨークなんてところに住んでいる人はきっとエリートで、もしくはご主人が華々しいところで仕事している人で、だからすぐデンバー郊外に4LDKとかポンって買っちゃえる人で、
あぁ、私が読む本なんて興味ないだろうし、英語ペラペラで、青い目の人達とうまくやれる人で、私たちは通勤に30分かかる郊外にやっと頑張ってフラット(マンション…より小さな建物の集合住宅)買えたのに、あの人はお金持ちで、起業して5年間死に物狂いで仕事してやっと生活の基盤ができたら癌になっちゃう私みたいなのとは全然ちがうんだろうなー。と、夕食の準備をしながら彼女像を勝手に作り上げた。そして自己嫌悪に陥った。

やっぱり、ここでも私はレアキャラでボッチだ、と現実を突きつけられてしまった。

彼女について夫に話すも「自転車操業」という日本語を夫は知らないから、まずはその説明からしなくちゃいけないし、初対面の人に「自転車操業」についてつらつらと垂らす気にもなれない。
みたらし団子を一生懸命作っても、「へー、めずらしいね」で終わっちゃう会社のスタッフにつらつらとみたらし団子について説明する気にもなれないし、日本食が恋しいとも思わず、外国で洋食をずっと食べていられる人には私の気持ちはどう説明しても分からない。癌の放射線治療で緑茶が飲めない悲しみも、お風呂に入れない悲しみも誰も想像つかない。

ボッチが必要としているのは、共感、だ。

 周りを顧みず、やりたいことをやり、全力て突っ走ってきて、ふと周りを見てみると、「すごいねー、頑張ってねー」ってみんなが遠くで手を振っている。ランナーはいつも一人だ。さて、私がゴールに行きついたとして、誰か私を待っていて、抱きしめてくれる人がいるのだろうか。他のランナーと一緒に肩を抱き合い、お互いの努力を称えあうことができるのだろうか。

いや、あるいは、とも思う。
人間は一人で生まれて一人で死んでいくとか歌う人がいるように
みんな自分がレアキャラだと感じボッチ感満載で実は生きているけれど
その暗い影を見せることなく過ごしているのだろうか。もしくは、私が見えていないのだろうか。

結局、目に見えることはとても少なく、自分の視点でしか物事を判断できないのだけれど、それで自分らしく、突っ走って生きていくしかない。そして、それが是か非かという答えは、
誰にも分らない。

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