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【リーダーを終えて】條川武志(3年)

こんにちは。千葉大学陸上競技部・前長距離ブロック長の條川武志です。先日行われた第100回箱根駅伝予選会をもって、2年の楊井暖にキャプテンを引き継ぎました。この記事ではブロック長として過ごした日々を振り返りながら、私の心情の変化を綴っていきます。過去最長の分量となりますが、よろしければお付き合いください。

4月の記事でも申し上げましたが、私がブロック長に就任した昨年の10月1日時点で、34分切りを達成していたのは当時3年の堀越ただ一人でした。加えて、最後に予選会に出場してからは5年の歳月が経っており、経験者はゼロ。今だから言えますが、当時のチームには負け犬根性がありました。新ブロック長としての意気込みを聞かれた際に「箱根駅伝予選会に連れて行く」と豪語した私ですが、前途多難であることは明らかでした。

組織の立て直しや活性化にあたり、最初に重要なのは人心掌握です。基礎体力と士気の向上を目指す序盤で失敗してしまうと、キャプテンとしての信頼が揺らぎかねません。出端をくじかれるわけにはいがなかったので、最初の3ヶ月はかなり慎重に動きました。予選会に行くという意識づけを毎週行い、ブロックミーティングも頻繁に設けました。ロングジョグやオフの重要性を口酸っぱく訴え続け、自らも2人目の標準切りを果たしてチームに勢いを与え続けました。

11月末に白子町で行われた秋合宿の様子。
3日間で90km以上走り込んだ選手もいた。

地道な取り組みが初めて実を結んだと感じたのは、1月の27大駅伝でした。前年17位と惨敗した大会ですが、私は総合10位以内を目標に掲げました。対校戦をある程度の位置で終えることで、部員たちには自信をつけてもらいたいと考えていたからです。総合成績は惜しくも11位でしたが、ほとんどの区間が5km以上ある駅伝で全員が目論み通り走ってくれたことで私は手応えを掴みました。その一方で、(私を含めて)チームは61秒届かなかった悔しさを隠しませんでした。誰ひとりとして満足しておらず、組織としての成長を垣間見たシーンでもありました。

順位の面では悔しさが残ったが、
チームの結束を確認できたのは収穫だった。

自信と闘志を取り戻したチームはその後の冬季練習も着実に消化し、2月の松戸記録会ではエースの添田と中距離の西田が一発で34分切りを果たしてくれました。標準突破者を5人揃えて折り返しを迎えることができ、私は改めて予選会を目指す覚悟を決めました。

少人数ながらも半年間ついてきてくれたチームメイト。彼らのフォロワーシップがあったからこそ、私もリーダーシップを発揮できた。

新年度に入ると出会いの春が訪れ、強力な一年生が8人も入部してくれました。元より人数不足に悩まされていた千葉大学にとって、これは嬉しい誤算でした。ただ、在校生のほとんどが戦力加入に沸く反面、私は一抹の焦りを感じていました。気温が上昇していくにつれて、標準切りのチャンスが限られてくることを知っていたからです。実際に2月の記録会以降は進展がなく、3ヶ月新たなクリア者が出ない状況は堪えました。それでも「焦るな」と自分に言い聞かせて一年生の持久力回復とチームの士気維持に徹しました。

そんな中、6月の順大記録会で楊井が二度目の10000mに挑みました。7000mまでは余裕を持って走っていた楊井でしたが、残り5周に差し掛かったところで10000mの洗礼を浴びます。8000〜9000mのラップが3分37秒まで落ち込んでしまい誰もが万事休すと思いましたが、あの時の楊井は一味違いました。残り2周のタイミングで堰を切ったようにスパートをかけ、33分53秒というギリギリのところでフィニッシュラインに飛び込んできました。ペースメーカーをしていた私は感情のジェッドコースターに揺られながら走っており、最後は思わず笑ってしまいました。何はともあれ標準切りを果たし、突破者は6名となったことは大きかったです。実に111日ぶりとなる新たなクリア者は沈んでいたチームに光を差し込みました。

次代のリーダーとしての役目を果たした楊井(写真左)。中心選手としての自覚が芽生えた瞬間でもあった。

また、6月末の平成国際大学競技会では一年生が躍動。1500m、3000m、5000mで私の予想を遥かに上回る好タイムを連発し、良い流れに乗ったまま試練の夏へと突入しました。おかげで、夏休み中はじっくりとスタミナを養う期間を設けることができました。ロングジョグの頻度を増やし、多くの部員が嫌がるクロスカントリーでの走り込みも複数回敢行。特にスピードタイプの選手の中には気後れする人もいましたが、無情の軍曹(私)を前にして抵抗はできませんでした。長丁場の走り込みは退屈だったと思いますが、あの練習をやっていなければ我々に明るい未来は訪れていなかったと信じています。

夏合宿で走り込む選手たち。足場が悪い中での練習は、我慢強さを養う狙いもあった。

チームの雰囲気が良い状態で9月を迎え、多くのメンバーが「予選会に行ける」と考えていました。しかし、またしても私だけは不安を抱えていました。歴代の先輩方をもってしても5年間出場できていないという事実がのしかかり、このプレッシャーはなかなか拭い去ることができませんでした。そんな私の心配を他所に、9月の27大戦では一年の岩野が危なげないレース運びで7人目の標準突破を果たしました。ここでようやく自信を取り戻した私は、「90%の確率で立川に行ける」と思いました。

貫禄の走りで標準切りを果たした岩野。
一歩も引かぬ強気なレース運びが、快進撃の火蓋を切った。

6日後、ラストチャンスとなる学芸大記録会を迎えました。不思議なことに、ペースメーカーの私はリラックスしていました。何度も不安に苛まれていたとはいえ、「ここまで妥協しないでやったのだから、今日は必ず達成できる!」という確固たる自信があったのかもしれません。結果はギリギリではありましたが、大学の垣根を超えた声援に背中を押され、最後は大岩・曽賀・山内の一年生3人が成し遂げてくれました。あと一歩で標準切りを逃した選手もいたので複雑な思いはありましたが、あの夜、小金井の空にこだました歓声を忘れることはできません。

365日間、共に闘ってくれた仲間たち。
リーダーとして、全てが報われた瞬間だった。

その後は2週間はエントリーなどの雑務に追われ、任期の中で最も忙しい期間でした。初めてのことだらけで不安でしたが、家族や後輩・同期の力を頼りながら当日まで漕ぎ着けました。

瞬く間に二週間が過ぎ、10月14日、私達は遂に立川のスタートラインに辿り着きました。総合50位以内を目指しましたが、私も含めた選手全員にとって、これまでで最も苦しいレースだったことでしょう。結果は総合53位でしたが、それでも10人が完走してくれたことは間違いなく来年以降に繋がります。個人としては悔しい走りでしたが、大学として結果を残すことができ、ようやく肩の荷が降りました。

絶えることがなかった沿道からの大声援。
ありったけの思いを21kmにぶつけた。

そして、結果報告会でこれまで歩んできた道のりを振り返った時、私は思わず涙を流していました。卒業なさった先輩方からも身に余る労いのお言葉を頂戴し、万感胸に迫ったのを覚えています。本当にかけがえのない時間でした。

ブロック長としての役割を全うした筆者。
レース後にこみ上げてきたのは、感謝の念だった。

ブロック長を退いた今、改めて激動の379日を振り返ると、様々なことがありました。それらは良かったことばかりではなく、残念ながら大過なく任期を終えたとは言えません。それでも、長距離ブロックのメンバーのみならず、他ブロックや卒業生までもが私に期待を寄せてくれました。「あと4人だな!」「予選会出場したら見に行きます!」といった励ましの声に何度救われたことか。手前味噌にはなりますが、長きに渡る陸上競技部の中で私ほど幸せなブロック長はいないと言っても過言ではありません。

当日は、多くの関係者が朝早くから足を運んでくださった。

最後になりましたが、日頃より多大なるご支援を賜り誠にありがとうございます。私たち部員だけの力ではこのような素晴らしい舞台に立つことは叶いませんでした。私のキャプテンとしての役目は終わり、世代が新しくなるときがやってきました。まだまだ指揮を執りたい気持ちもありますが、今度は再びフォロワーとして楊井の役に立てればと思っております。 また、20年以上にわたってプロ野球の世界で指揮を執り続けた名伯楽の野村克也氏は次のように述べました。

地位が人をつくり、環境が人を育てる

野村克也『野村の流儀』ぴあ株式会社,2008

楊井が置かれているチーム状況は一年前の私のものとは全くの別物であります。さらに、彼自身も競技に対して独自の価値観を抱いております。どうか皆様、温かい目で新キャプテンの頑張りを見守ってあげてください。
“ちばりく長距離”の底力はこんなものではありません。もっともっと強いチームになって、来年もう一度あのスタートラインに帰ってきます。保護者の皆様、卒業生の皆様におかれましては、引き続き変わらぬご声援をお願い申し上げます。改めまして、本当に一年間ありがとうございました。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。
私にとって、この一年は宝物のような時間でした。

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