「お母さんは、沖縄の土さ」

陶芸家の母は復帰の次の年に沖縄に来た。焼き物の修業をするためである。沖縄に来る前は益子にいたらしい。

壺屋焼の窯元に弟子入りし、読谷に暮らす中で、うちの父と出会い結婚し、僕が生まれた。

母は一人っ子の僕にできるだけ多くの文化的な体験をさせようと、小さいころから数多くの旅行、芝居、コンサート、美術館などに連れて行ってくれた。

とりわけ、沖縄に関するものは徹底して参加・習得させようとした。うちなー芝居、組踊り、民謡、沖縄映画、平和集会や様々な講演会やシンポジウムなどにも連れまわされた。幼い僕は退屈して眠ってしまうことも多かったが、それでも母は沖縄で生きていくために僕を「うちなんちゅ」として育てることに執念を燃やした。

ことあるごとに母は沖縄のためになる人になりなさいと言った。反抗期の僕は「沖縄のため、沖縄のためって言うけど、お母さんはいったい沖縄の何だわけ?うちなんちゅでもないくせに!」と母を罵った。

母は即答した。返ってきた言葉は意外なものだった。

「お母さんは、沖縄の土さ」

僕は絶句した。

これに返せる言葉を僕はまだ持ち合わせていない。

音楽をはじめて20年になるが、「俺は沖縄の音さ」

とはまだ言えていない。

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