辞す・飛んでやるもん


はじめに

このnoteは、劇団個人主義2020年度入学生卒業公演『辞す・飛んでやるもん』に係わる書き残しです。主に脚本についてのモノになります。構造や内容を一切推敲せず書いてますので、世見苦しい部分多々あるかと思いますが、ご了承ください。
関係者の皆様、ありがとうございました。

脚本

こちらからどうぞ。


諸々

『辞す・飛んでやるもん』は元々上演のための脚本ではありませんでした。
昨年4月末に、劇団の定期活動とは少し浮いたところで新しい試みをしよう、と企画公演を立てたのですが、その時に、「こういう脚本を探してきてほしい」と、いわばサンプル品として書き出したものです。”こういう脚本を探してきてほしい”のなら”こういう脚本”をやれよ、と今でも思うのですが、登場人物の数等諸々の事情で、あくまでサンプル品として扱うこととなりました。

オムニバス


こういう脚本を探してほしかっただけのことはあり、私の好きがたくさん詰まっています。
まずはオムニバス。と私は呼んでいるのですが、複数の登場人物の視点で描かれていく話、ないし、複数の物語の詰め合わせ、のようなものが好きなのでそこは譲れません。本脚本では「神崎・心美」「広瀬・美佐」「直木・芥川」の3つの視点、物語で、ストーリーが進んでいきます。この形式の良いところは、やはり最後に向けて複数の物語が重なっていくところから得られる緩やかな感動にあります。あの人の行動がここに繋がったんだな、こっちがこうなっているのはあっちがこうなったからだな、といった腑に落ちが、都度小さな感動をくれるので好きです。本脚本もそうなっていることを願います。


男女観

広くとって恋愛観というのかもしれません。本脚本では「神崎・心美」「広瀬・美佐」が、男女ペアの物語だったと思いますが、私の好きな男女観がよく出ていたと思います。

広瀬・美佐の男女観を一言でいえば「強い男はいる。悔しいが」だと思います。作中の広瀬は女性に慣れている様子で、彼女と彼女の友達の3人でBBQにいくだとか、女の子4人と映画に行くだとか、こと男女のそれにおいて何一つ不自由がありません。そういう意味で「強い男」です。それの何が良いんだ、そうなりたいのか、と思われることでしょうが、私は、こういう広瀬の人間が世の中に分かるほどには居るということさえお伝えできればと思っています。依然、男女が恋愛というカテゴリで繋がる世の中で、誰よりも恋愛に苦労せず、それでいて多くの交際を持ち、しまいに多くに傷を残すかもしれない、あなたたちはそういう人に気をつけなければならないと思いながらも、結局気づけず傷つけられて、また一つ物語としてしまう。私は物語が好きですから、むしろこういう作家の存在はありがたいわけで、つまり「こういう男女観の存在」が好きなのですが、これをお伝えするのと同時に、まあ軽く注意喚起でもしてあげます、という気持ちで、登場していたのでした。

一方、神崎・心美間は言わずもがな、凡そ二人の間には何もないわけですが
こちらは簡単に言えば、女性が男の行動の原動力になっているということです。と言ってもこれくらいならよくある広い話なので、もう少し狭くして、「物語上、それに対し女性からの見返りはいらない」と、こっちの方が大切です。返報性の常と言いますか、男が女のために何かをしたら、どういう形であれ女から男に、それに対するバックがあるものという意識は、特に平成を生きた我々にはなんとなくあるものだと理解しておりますが、物語がそれを多用してしまうと、どうしても登場人物が物語に動かされる節が出ると考えます。男が女に何かしてあげる話、に絞るのであれば、男が何かしてあげたって、女にはその男に何もしてもらえなかった人生の延長線上の物語が存在し続けるはずです。だから、男がどんなに頑張っても女の人生がその延長線上から出るほど変えられるものではない、それでも必死にやったんだ、男は。というような、健気な釣り合わなさがある物語が好きです。

書いてて混乱しましたが、これは私の男女観ではなくて、私が好きな物語の男女観、です、よ、ね?


言葉遊び

アンケートや劇場内で良くあげていただきました。
言われてみたら確かに、と言いますか、演劇屋さんなんて皆言葉遊び大好きで特別差なんてないんじゃないかと思っていたので、言ってもらえるくらいには浮いて抜きんでていたんだな、という感じです。

実際言葉遊びは好きで、旧ツイッターをはじめ毎日のようにやっていることですが、本脚本でそのように言ってもらえるのは、言葉で説明しないといけない部分の多さによるところかな、とも思います。

脚本として端折っている部分が多く、例えば、広瀬が実際店員に事情聴取されているシーンが無かったり、直木たちが藤間法律事務所の人に電話するシーンが無かったり。いつも後から登場人物が後から何があったか教えてくれます。別にそんなシーン端折っていいでしょ、と思ったからそうしたのもありますが、だとしても言葉に頼りすぎで、結果として皆さんを耳だけに集中させすぎたのかもな、と思わなくもありません。役者としても言葉だけでお客様に分かってもらわないとな部分が多く自由度が低かったかなとも思います。その説明の道中暇しないように言葉遊びを無理くり入れたこともあったかもしれません。

一方で、私がくっちゃべがすきで、言葉遊び系作品に付く「日本語話者でよかった」が好きで、内容が同じなのに言い回しだけで面白さが違くて、みたいなのが大好きですから、それが伝わったのなら、そういう世界の一部になれた、という喜びもあります。


オマージュ・パロディ・インスパイア・パクリ


どれですか?いずれにせよたくさん入っていたはずです。
脚本だったり、振りであったり、演出だったり、言葉だったり、私の人生に影響を与えたもののうちいくつかに出てもらいました。私の人生を作っていただき、感謝しかありません。何か皆さんと共有できていたら、うれしいですね。


脚本解説

読みたくなかったら読まなくていいですし、これが答えだとも思いません。
私自身、脚本を書いたころの私に戻れませんし、私は「たかしろっぴ」なので、いち個人として、解説っぽいのを書いてみようと思います。何かの参考になれば、程度です。


劇について

劇のテーマは「去る者が残すモノ」
ということで、登場人物が、基本去る者になってます。
神崎はとっとといなくなり、直木は会社を辞め、みたいな。広瀬はちょっとだるいので後回し。神崎が一番分かりやすいと思います。冒頭でいなくなった神崎、ですが神崎が残したものは他の5人の大きく変えることになったのかもしれません。そんなことないか。
残したものは例えば、スタジャンかもしれませんし、電話かもしれんし、言葉かもしれない。いや、実はなんもしてないかも、みたいな。
後半では芥川も会社を辞め、最後に心美は舞台を去る、となっております。
心美だけ唯一、残す」の目的語が皆さんになります。何か残されましたか?

題『辞す・飛んでやるもん』は「辞す・飛んでやんよ」の可能性がありました。そんだけ

脚本中、「辞す・飛んでやるもん」という映画が出てきたり、舞台化してたりしました。「実はこの世界は映画/舞台だった!」っていうオチをやろうとした名残というか、まあ自然とそうなったというか、この段階では意図的でなく、中途半端な事故言及のパラドクスみたいになりましたが。書き進めていく中で放っておいてみたら、心美は演劇的に一人語りをしたり、直木は舞台を作りたがったり。ああ。こいつら演劇がしたいのかあ、と思い、最終的には我々は演劇と共にある、方向に寄せていきました。この辺がそんな感じで伝わっているアンケートがあってびっくりです。神崎心美が「辞す・飛んでやるもん」言うところで流れていたプロジェクターはそれぞれ映画のOPEDを意識したものでしたが、劇中に「作りて側」の存在を醸すことで、キャラクターと、そしていわゆる「我々」をシームレスにつないでいただけたと思います。そつこうだった、というのも大きいと思いますけどね

広瀬・美佐

後回しにしました。
脚本時点の構想は、冒頭から広瀬と一緒にスタジャンを追いつつ、美佐の浮気を突き止めるも、次第に広瀬のうさん臭さに気づき、最後には、実は、浮気と「おのが我儘にて弄ぶ」の構造が逆だった、というのをやりたかったのですが、劇としては広瀬が冒頭からうさん臭くなったかもな、とも思うし、美佐があまりにもいい奴そうになったかもな、とも思いました。この辺の構造がみなさんにどう映ってたのか気になります。
終わってみて広瀬がここまでコミカルに映るのは意外でした。直木が「理屈遊び」なのに対し広瀬はマジの「言葉遊び」ではありましたが、脚本としてはマイペース感というか、我々と同じ大地に立っていない感を出すためのものだったので、予想以上に楽しんでもらえてよかったです。

広瀬のカギは「中古嫌い」にあります。これがどのくらい脳に残っていたかで楽しめる度が変わってくるなあと思ってました。
最初のヒントはクーラーボックスの「新品を買ったんだよね?」
ですが、これくらいなら新品を買う約束をしたのかな、程度の理解かもしれません。
2個目のヒントは遠いながらも分かりやすく、美佐が広瀬に渡したコップをリサイクルショップで買ったと言う場面。その時点まで感情という感情がなかった広瀬が大きな音を立てます。先ほどの「構造が逆転」し始めてほしいのはここですね。逆にヒントがこの2つしかないので、ここらを逃すと広瀬はつまんないかな、と思います。
この中古嫌いというのを拡大解釈し、「処女厨」あたりのワードにたどりつければ、本編想定のタイミングよりも早く広瀬を疑えたかもしれません。
 演技上のヒントとしては、「誰々と何かをした」と言う時に決まって同じ動作をしており、これは「たくさんある女の名前から今必要そうなのを当てはめる」動作になっていまして、不信感があります。これのヒントは「美佐と呼ぶから美佐だ」です。
あとは直木に「女は2人だったりしないだろうなあ」と言われた後の顔とか。今言っても遅いか。台詞としては、ミスド受領後の「そのままでいいのになあ」が意味深です。

美佐は逆に、美佐のイノセンスを示す台詞は語尾が「が」になってます。多分。
「別(に隠してること)?…ないが」「ライブハウス?言ってないが」

逆に
広瀬「うちではお客様感謝キャンペーンでクーラーボックスにはスタジャンをお付けし ています」
美佐「そんなわけないが」
広瀬「うちではそのようなクーラーボックスは取り扱っていません」
美佐「そんなわけないでしょ」

は語尾が「が」じゃないことで黒を匂わせています。

といっても、そうじゃないところもあるし、まあ、そう思えたらそれもヒントだよねって感じ。

最後に向けて
最後の場面、帰宅後広瀬はなんだか暗く、おそらく「負けの気分」になっていることでしょう。柄にもなく美佐に謝ってしまいます。そして美佐に誤ったアリバイを伝えてしまう。
美佐はこの時自転車に細工は済ませていましたが、最終判断まではしていませんでした。一度家に上がらせてあげています。しかし、アリバイを尋ねられ、最も安易な返答をされた美佐は決心が固まるのでした。
広瀬を追い出し、工具をちらつかせた美佐。
自転車に細工したのであろうことは分かりますが、広瀬は無事なのでしょうか?
無事です。どうせ。

広瀬が室内で靴を履いていたことは演劇上のバグと言えましょうが、演劇上のバグ、というところから「心美が主人公の”辞す・飛んでやるもん”にもう出てこれない」ということを意味しているのではないかと思います。

直木・芥川

サブストーリー。物語のまとめ役、メッセージ役。理屈屋さんということもあり、基本は書いてあるままで、好きな人も多いのではと思います。プロジェクターの雰囲気も良く伝わっているようでした

「迷惑かどうか、決めるのは警察だ」
これは解放の台詞です。いなくなることは迷惑である、ということへの抗弁。
人は、いなくなったら迷惑かもしれない、と留まってしまうけれども、好きにしたらいい、捕まったら謝れ、とそんな感じです。
芥川も最後にはこのセリフで会社も辞める決心がつきます。
心美の「逆に、言葉による自由」はこのセリフにかかっています。

「いいものにはせいいっぱいの拍手を」
覚えているでしょうか、映画館での芥川のセリフ。
物語でなく、演劇としてのこの劇のテーマです。
物語中の映画「辞す・飛んでやるもん」は良いものだったので拍手されています。
心美の発表もいいものだったので教授や法律事務所の人から拍手されます。
そして、この辞す・飛んでやるもんという物語に、終演後皆様から熱い拍手をいただき、その拍手を含めたこの劇のすべてに、最後、舞台奥から一人の拍手が響いて終わります。

「人は割り算じゃなくて掛け算。繋がっていれば何かある~」
みたいな感じのやつ。
上で書いたオムニバスの良いところであり、私が好きな「縁」の温かさを示します。このセリフのおかげで理解できる部分もあるやもしれません。
余談ですがこれに対する直木の「掛け算できるなら割り算もできるんだぞ」
は結構お気に入りなのですが、あまりピンときませんかね?

あと僕はライブハウス好きですよ。行ったことありませんけど

神崎・心美

冒頭の神崎は、いかにふざけた様子で儚さを醸し出すか、という勝負でしたがいかがだったでしょうか。
パフェはああいう風に作ってもらえてよかったと思います。ちょっとかわいくて憎めないでしょ。
「心美って呼ばないで」は上の男女観の一部かなと思います。心美って呼んでも、良いものは何も帰ってこない、的な。逆にここまで無碍にされて(そりゃそう)まで、頑張ったんだ、神崎は、というスパイスにもなっているはずです。

「野球にはレッドカードがないんだ」というフレーズが、この脚本の始まりで、頭にあったこのフレーズに他のすべてを肉付けした感じになります。ね
「先に辞す・飛んでやるもんじゃないんかい」ってね。
だから本当は「何してもいい」がテーマになるはずだったんですね。奇妙だなあ。

「離婚の事ワンアウト」って言います?これはうっすら広瀬美佐を匂わせるために無理くり入れました。

「ひとりでやれるってことだよ。ここみは」
掛け言葉です。いわずもがな

これを言った後の立ち方と歩き出すまでは神崎と心美で対比になってます。
心美は「人生がかかってる」の後ですね。立ち方は同じなのに行き先が違います。


心美編は私の抽象劇の解釈です。逆にその他の部分は具体的にやったつもりですが。より演劇みがあったと思います。一人で場を回し、強い言葉を言ったり、大きいことを言う。他のキャラクターに対し「ひとりでやれる」感があるのに、苦労もしっかり伝わったんじゃないかと思います。皆様には神崎か心美どちらかに感情移入してもらう必要があったので、心美は等身大のパートと、より演劇的なパートに分かれていました。これは、最後の心美からお客様に役者として挨拶する説得力、そして物語外にメッセージを伝えることに大きく貢献したと思います。


「いまもどこかで現実を過ごしている」「どこかで誰かが過ごしていく」
これは物語外に我々が共有している時間は一つであり、繋がっていることを伝えたかったです。分かりやすく言えば「同じ空の下」ですね。
卒業ということで皆さんの前から姿を消す我々ですが、きっとどこかで同じ時間を生きています。やんわりそう思ってもらえればなという感じ。
物語的にも、そこでちょっと神崎を思い出せればBetter

「明日に集まり、明後日へと散っていく」
言わずもがな、卒業式と卒業後です。こと卒業公演で言えば公演と公演後とも言えます。物語としても、この後から、2度目の辞す・飛んでやるもんへとつながっていきますが、物語外にも、卒業の文字が浮かべば幸いでした。

最後に皆さんにご挨拶したのは役者の心美で、ある意味物語中で資料作りを頑張っていた心美とは別人かもしれません。タイタニックの本人インタビュー的な。これはある意味で後日譚的な役割で、今後も卒業生は楽しく、そして演劇と共に人生が進んでいくということを暗に示せていたらな、と思います。「サイクルヒット作がどうのこうの」言っていたのは勿論直木です。
下北沢は古着の聖地です。多分。

最後の拍手。言わずもがな。気づいてもらえてうれしいです。


スタジャンの真相、想定解・正解にあらず

正解なんてないし、整合性もないですが、想定解を簡単に

・犯人、ライブハウス事務所からスタジャンを盗み置き引き
・スタジャンを脱いだ後、リサイクルショップへ適当にあったクーラーボックスへイン
・美佐 それを買う

というのが想定解です。言ってしまえばこれ以上は考えてません
犯人を「神崎」にするなら、もう少し細かくなりますね。パソコンとか電話とか
一応物語のほぼ全ての施設が「駅前」にあるとされていました。
私たちがいつも集まる場所、始まる場所、それが「駅前」と呼ばれていたのかもしれません。


音楽

ジストーン、と名付けて我々がよんでいるあの曲ですが、広瀬役の彼に作ってもらいました。
私自身、音楽にうるさい自信があり、お願いするときに、絶対条件こそ付けましたが、いうて何度もリテイクが必要だと思っていました。
しかし、1発であれが出てきました。本当に頭が上がりません。
演出もかなり音楽に頼った付け方をさせていただきました。
音楽の盛り上がりに合わせて役者がサイレントで動く演出は、尊敬する先輩の劇からインスパイアを得たものながら、より我々らしくできたと思います。

さいごに

書ききれたかなあ、わからんけども。なんか気になることあったら聞いてください。
もうすこし、気持ちよりのところも話せたらとおもいましたが、またの機会に。
上記の通り、結構こだわりというか、意図とか最初っから脚本にあって、それを座組に強いる部分が結構ありました。苦労を掛けたと思っています。おかげでうまくやれたと思います。
みなさんにも、私の意図を汲んでいただいた部分おおくあるとおもいます。ありがとうございました。また機会あればどこかで会いましょう。


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