夢見りあむは止まない夢を見るか?―夢見りあむの担当声優と解釈違いを起こした話― / マッド

 みなさん、夢見りあむ、好きですか?私は“面白い”ので大好きです。あんなヤツがシンデレラガールズのアイドルだって考えるだけでワクワクしちゃうんですよね。
 夢見りあむ面白いな~すこやな~と思いながら何が面白いのか1年間色々考えてたら7th大阪公演のラストMCで夢見りあむ役の星希成奏さんと解釈違い起こしてることが判明しました。なんで?
 というわけで、今回は私が個人的に夢見りあむに感じている“面白さ”の分析から、解釈違いについての話題を終着点にお話させていただきます。前提として個人的に夢見りあむに見たい思想の話なので、キツいこともあると思われますが、ご容赦ください。

初見で夢見りあむに抱いた印象

 2019年2月7日、夢見りあむはモバマス実装の新アイドル枠最後の一人として登場しました。それまでに登場していた辻野あかり・砂塚あきらの二人も十分なインパクトがありましたが、夢見りあむはそのヴィジュアルの派手さとキャラクターの奇抜さで当然のように注目の的になっていました。実装翌日にアイマスを全然触っていない友人からも話題にされて驚いたのをよく覚えています。
 夢見りあむがどんなキャラクターかはみなさんもうご存知でしょうからここで改めては語りませんが、私が夢見りあむに対して初めに抱いた印象は「こいつ現実にいたらTwitterのアカウント3週間くらいで消してアイドル辞めてるんだろうな~」でした。言葉のままの意味ですが、別に夢見りあむが受け入れられなくてアイマスから消えてほしいという方向の思想を持っていたわけではありません。とはいえ自己承認が動機の100%でアイドルになるなんて美しくはないですし、異質で受け入れがたい存在と言えたのは確かです。
 もし、あんな精神の人間がそのまま現実にいたとしたら、SNS上でナメた発言をして、炎上して火に油注いで、また燃えて活動を続けられなくなるか、それですら特に大きな話題にもならず、ただ飽きて鬱がってひとりでに消えていくか、キモいオタクがついて同族嫌悪に苛まれつつも得られる自己承認にだけすがって堕ちていくか、いずれにせよ気持ちいい話にはなりませんよ。一オタクの憶測ですが。
 そんなアカウントなり人間なり、好きになれないですし、むしろ嫌いです。でも、だからこそそんな夢見りあむという人間がアイドルで、しかもアイドルマスターシンデレラガールズのアイドルだという事実が、夢見りあむを“面白く”しているんです。
 初めの印象から、単に前例のないことなので「オタクの話題かっさらうだけして3カ月くらい経った時に本当にモバマスから消えてしまったら最高に笑えるな~」とも考えていました。当然そんな展開、シンデレラガールズではありえません。なぜなら、アイドルマスターシンデレラガールズというコンテンツは、その性質から半永久的にアイドルが成長していく未来を担保していると言えるからです。モバイルゲームというフォーマットであるために、シンデレラガールズに登場するアイドルはサービス終了まで、山も谷も乗り越えた先ですらアイドルとして輝き続けなければなりませんから。

シンデレラガールズの物語について

 ここで見るべきシンデレラガールズというコンテンツの性質について触れておきます。簡単に言えば「アイドルの物語の構造に明確な終わりを持たせられないこと」となります。
 例えば関裕美というアイドルには、彼女の笑顔にまつわる一つの大きな話の流れがありますよね。上手く笑顔を作れなかった彼女が、アイドルになったことで世界が輝いていることに気付けるようになり、今では私たちに素敵な笑顔をよく見せてくれるようになりました。買い切りのゲームであれば、ここがエンディングで十分成立するストーリーだと思います。自分の苦手を乗り越えていくのはこの上なく美しいです。
 星輝子も7th大阪公演の松田颯水さんがお話されていた「星輝子という女の子の個性が受け入れられて彼女らしく輝けるステージに立った」という物語で理解しやすい一人であると思います。彼女のように自身の個性を輝かせるという形で語られるアイドルは多いです。
 私の担当から橘ありすだと、2019年にデレステで実装された[ありすの物語]というカードで、自身の「ありす」という名前に抱いた悪い思い出を乗り越え、「不思議の国のアリス」をモチーフにした公演を成功させるというストーリーにたどり着きました。実装時には声優の佐藤亜美菜さん自身もTwitterで、「ここからありすの第二章が始まると感じた」と発言していたように、この話もこれまで橘ありすが紡いできたストーリーの一つのエンディングと捉えられます。エンディングに匹敵するような物語上のマイルストーンはデレの各アイドルそれぞれにあるはずです。
 そして重要なのは、そこで終わりにはできないし、少なくとも終わらせることを前提にそれぞれのアイドルの物語を設計しているはずではないことです。シンデレラガールズ上では、そのアイドル単体で動かせるストーリーの軸がある程度完成した後、他のアイドルとの関わりから見えてくる一面や、LIVEツアーなどのある一定の役・仕事を与えられた時に見える姿を語っていく傾向があるように思います。
 天海春香が無印版においてドームライブに到達するのとは理論の違った構想が用意されているはずで、それはこのコンテンツに登場した時点からどのアイドルにも与えられていると言えます。つまりは、ただアイドルとして美しく輝くだけでなく、「輝きの向こう側」での展望まで見据えた上で、キャラクターが存在しているというわけです。輝き続けるアイドルを追っていられる、これこそがシンデレラガールズの面白さの本質だと私は常日頃から感じています。そして、シンデレラガールズの一員であれば、アイドルには半永久的な成長譚が担保されているという解釈ができる由縁です。

夢見りあむは止まない夢を見るか?

 この性質による原則は夢見りあむにも当てはまるはずです。夢見りあむという人間がどれほどクソザコメンタルであったとしても、当然「ポジティブであれ、ネガティブであれ、どんな事情をもってしてもアイドルを辞める」という話で完結させることはできません。その上、アイドルである以上は何かしらのエモーションを投影され、止むことなく輝き続ける宿命を背負わされているわけです。ここが私の思う夢見りあむの“面白さ”の本質です。
 自他共にアイドルらしくないと認める夢見りあむがそれでもアイドルになる物語の構造は美しいし、だからこそユーザーを惹きつけます。これはモバマス新実装の3人に共通して語られることですが、イマドキの女の子の符号をテーマにしているように思われます。その中でも特に夢見りあむはオタクで、クソザコメンタルで、自分に自信が持てなくて、でも楽したくて、現実に辟易としていて、そんなダメダメな自分すらイヤで、そんな鬱屈とした人間性は、ある種コンテンツを追う実際のオタクの思想と近しいものがあります。
 そんな「ダメでオタクな私たち」の符号をもった夢見りあむが、そのままにして輝く道に置かれてアイドルという夢の世界で活躍していくわけです。今までアイドルマスターのアイドルたちは、その性質と合わせて輝くべくして輝く存在であり、ユーザーとは少し離れた思想にあったと思います。私たちはこれまで、その離れたところにある誰かの特徴的な美しさに尊さを感じたり憧れたり応援したりしてきたのではないでしょうか?夢見りあむはそこから少し外すことで、「ダメでオタクなヤツ」がアイドルになる物語を通して「純粋にアイドルになることの美しさ」を改めて分かりやすくするという構造が成立しています。アイドルマスターが私は大好きなので、この構造をぶつけられたら、自分は面白れぇ~ってなっちゃいますね。
 「アイドルになる物語」を背負った夢見りあむは、同根の思想をもつと錯覚しているユーザーからもっと輝いてほしいという願いを投影されます。その瞬間、誰かの願いを投影された彼女は既に「アイドル」です。これは彼女がどんな人間であれ、むしろあんな人間だからこそ起こってしまう矛盾です。彼女が広義の「アイドル」という尊い夢の存在になった時、もはや彼女はダメでもなんでもなく、夢見りあむですらありません。「ダメでオタクな私たち」を投影される偶像となれば、その声援の対象は「夢見りあむ」ではない。アイドルって私はそういうものだと思います。こうなれば夢見りあむが求める自己承認は事実上なくなってしまいます。
 アイドルマスターシンデレラガールズのアイドルであるという止まない夢を背負わされた彼女は、その夢を見るべきなんでしょうか?

止まない夢はどうやら見ないらしい

 たくさんのユーザーの様々な思惑にもまれつつも結局彼女は第8回総選挙で3位になってボイスを即行で獲得してしまいました。アイドルになっちゃったわけですね。あ~残念。オタク、チョロすぎ。とか思ってたら、デレステに最高の解釈の一致をもってこられました。SSR[夢見りあむは救われたい]の実装です。セリフを引用します。

『アイドルはだめじゃいけないしダメなやつはアイドルじゃない!』
『初めはアイドルになったらがんばれると思ってたよ…。』
『でも違うんだ。アイドルになってわかった。何もできないって。』
『尊いのがアイドルなのにぼくは尊くない。アイドルじゃない。』
『アイドルでいられないのに、大きなステージにあげられちゃう。そこでどうやって笑えばいいのかな!?怖いよ!』

 以上は特訓前の親愛度セリフからの抜粋です。実装当時思想が合いすぎて笑ってました。こんなに「アイドル」について考えてるの、最高なんですよね。そもそも夢見りあむ自身が前項の矛盾にちゃんと気づいているわけで。
 特訓エピ・特訓後では、特訓前のストーリーの答えを持ってくるのが通例です。ここではもちろん「アイドルでない自分がアイドルとしてステージに立つという行為への解釈」に焦点をあてています。そこでの答えは『だからアイドルになれない!だからアイドルにならない!ぼくはアイドルじゃない、りあむとしてここに立ってる!ぼくはぼくのまま『いま』を楽しんでやるって決めたんだ!』あくまでも自身は夢見りあむとして存在することを願って、そのままの私でありたい!と宣言したわけです。
 エピソードの中にも総選挙や大型ライブへの言及などなどメタ的文脈も多く、アイドルマスターの中に存在する一部ユーザーのアバターというテーマも明示しつつ、自己矛盾を解決するカードになっていたと思います。まぁ、カードは持ってないんですが。

と思ったらそうでもなかったらしい

 こんな感じで締める記事にしようと考えていたんですが、そうは問屋が卸さない状態になってしまいました。7th大阪の星希成奏さんのMCですね。いきなり解釈違いだよと宣告されたので爆笑してました。
 アンコール後のいつもの挨拶で、時間は気にしつつ想いを伝えるために早口でまくしたてるという形で、オタクでいいねぇと思っていたのですが、その中で「夢見りあむはアイドルが好きだしアイドルになりたいと思っている」という部分がありました。やっぱり夢、見たいらしいです。まぁ心変わりなんて一瞬でするよね、ああいう人間なので。
 真面目に考えれば、実際SSRの特訓後のセリフに『ステージ上のぼくは永遠にぼくのままでいるつもりだけど、会場のみんなの心の中で、今日の思い出のぼくがいて……それが、アイドルにみえてたら……いいなぁ』というのがあって、ここは客体から見れば「夢見りあむはアイドルを身に纏いたい」と考えているという解釈はできます。
 また、シンデレラガールズの「アイドル」の定義からも考えることができます。ASのゲームや、シャイニーカラーズでは、どのアイドルも一つの「優勝=トップアイドル≒アイドル」という画一的な「アイドルへの到達」を目指しています。それに対してシンデレラガールズなどモバイルゲームのアイマスでは、そのような画一的な目標は存在しません。つまり、藤居朋の「占いアイドル」や、星輝子の物語のような、自分の個性を活かしたそれぞれの「アイドルの大成」を果たすことが目標になっているといえます。その文脈からすれば、「夢見りあむも夢見りあむとして『アイドル』になれる」のかもしれません。
 結局『誰もがシンデレラ』『夢は夢で終われない』ということなんですかね。この辺の裏切りまで含めて夢見りあむの面白さなんだと思います。SSRのポスターでは『自分のためであってもステージを楽しむりあむの姿は誰よりアイドルらしい。りあむはまだ、それを知らない』と語っています。夢見りあむの自己矛盾や開き直り、彼女のダメダメさ、メタ的構造まで、全て包んでなおそれすら「アイドル」であると形容してしまうアイドルマスターの懐の深さには頭が上がりません。これからもアイマスに夢をみさせてください。
ただ、そこで改めて私が強調したいのは、それでも夢見りあむは輝き続けないといけないということです。「夢見りあむがアイドルになった」その向こう側に、夢見りあむという人間は本当に「私」をそのまま維持し続けられるんでしょうか?アイドルになるということはそんなにラクなことではないんじゃないか?と私は思ってしまうのです。
 まぁ、私はそろそろ疲れてきたのでこのあたりで夢見りあむについて考えるのは止めにしたいと思います。オタクの思想に付き合ってくださってありがとうございました。

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