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大掃除     【初来日】

 一リットルにも満たない程度の飽和食塩水。それか水を張った浴槽。もしくは一本の縄。
 『人の命はかけがえのないもの』なんて言うけれど、この程度のもので案外あっけなく終わることができてしまうのだ。現に今、俺の命も、俺がこの椅子からたった一歩踏み出せば、一本の縄に首が吊られて終わる状態である。死ぬのは簡単だ。一歩踏み出すだけだから。
 別に、こうすることにたいそうな理由なんてない。ただ、ずっと掃除していない本棚のほこりのように、少しずつ少しずつ落胆だか不満だか不安だかが溜まっていっただけ。たった一歩踏み出す程度の動機には、それだけで十分だ。
「いろいろ面倒だし、もういいや」
 なんて、中古で買ったよくわからんゲームを途中で投げ出すくらいのものである。
 それじゃあ、そろそろ…。
いや、待てよ。椅子から空中に一歩踏み出そうと、その踏み出す先を見て気づく。部屋がとても汚い。まあ、もう長い間いろいろ面倒になって片付けなんて忘れていた。これで今、俺が死んだらどうなるだろう。
 まず、何日後かに不審に思ったアパートの近所さんだかが、管理人とともにこの部屋に来るのだろう。そして、
「汚い部屋だな」
 なんて思うのだろうか。そして、今度は警察がここに訪れて、そしてやはり
「汚い部屋だな」
 と思うのだろう。
 そうなれば、羞恥のあまり死んでも死にきれない。そして、この汚い部屋の地縛霊として住み続け、幽霊物件として次の住人の家賃を割り引く原因となってしまうだろう。『立つ鳥跡を濁さず』なんて言葉もあるし、絶つ前にきれいにしておくのもいいかな、なんて思った。朝のゴミ出しが終わるまで残り十時間。換気のために窓を開け、年末の大掃除、もとい終末の大掃除の開幕である。
 ゴミ袋に適当に手に取ったものを入れていく。三か月前まではまだたまに行っていた大学の授業の資料。いつ食ったかわからないカップラーメンのカップ。丸まったティッシュ。などなど。手あたり次第に入れていく。その手が昔やっていたゲームを手にしたとき、俺は手を止めた。
 これは確か中学生くらいの頃。このときの俺には、友達なんていうのはいなかった。というか今もいないのだが。そんな俺に、一人、よく話しかけてくれる子がいた。なぜなら、その子はクラスの人気者で、みんな友達スタイルを貫く人だったから。そしてある日、その子のコミュ力が、クラスの陰で暮らしていた縁の下のダンゴムシのような俺に、ゲームを貸させたのだった。彼はたまに俺の席に来ては
「あのゲーム、超面白いじゃん!」
 なんて言ってくれた。この時の俺は、陰に住むダンゴムシなんかが太陽の光を欲しがるように、友達なんていうのもいいものだなんて思っていたが、彼が俺にゲームを返してすぐにその思いは消えた。
 俺のセーブデータが消えていた。多分彼が間違えて俺のデータに上書きしてしまって、言い出せなかったのだろう。ただそれだけ。だけども、初めて友達というものに強い憧れと期待を抱いた俺は、大きく落胆したのだった。
 けれど俺は彼に怒ったりすることはなかった。俺がここで怒らないことで、彼は一生その卑怯な部分に気づかずに生きていくんだ。それで、いつの間にか一人ぼっちになればいい。
 そう思っていたのに、彼はそれからもどんどんいろんな人と仲良くなっていって、俺は友達が一人もいないままだった。ああそうか、彼みたいなのが正しいのだな、と子供ながらに理解し、俺はその教訓としてゲームを残しておくことにしたのだった。すっかり忘れていた。
 俺はそのゲームををゴミ袋に突っ込んだ。
 そしてまたどんどんゴミを突っ込んでいくと、今度は高校時代のバイトの制服が出てきた。高校時代も俺は相変わらず一人ぼっちだった。中学の彼のように、誤魔化したいことはうまい具合に誤魔化して、うまく言えば臨機応変にやってきたはずなのにどうしてだろう。なんてそんなことを考えていた。そんなあるとき、俺はバイトでもう今は覚えていないくらいの些細なミスを誤魔化し、上司に怒られたのだった。
 どうして。
それがその時の俺の感想だった。どうして俺のゲームのデータを消したのを誤魔化したあの彼には友達がたくさんいて、それに倣った俺はいつまでも一人で、こうして上司に怒られているのだろうか。面倒になってその日以降バイトをサボり、捨てるわけにもいかず返すのも億劫で扱いに困った制服だけが、所有者の名乗り出ない忘れ物のように俺の手元に残ったのだ。
 結局俺は、中学のあの彼のような、タイミングとか、程度とか、上手く誤魔化して人と付き合っていく器用さなんて持ち合わせていないのだ。結局どうやったってダンゴムシはダンゴムシで、陰でしか生きられない生物なのだ。そして、自分のことをダンゴムシだと卑下する卑屈さと、同じ陰で生きるムカデだとは決して例えようとしないプライドの高さが同居している面倒な生物が俺なのだ。
 俺はその制服をゴミ袋に突っ込んだ。
そうしてまた機械的にゴミを突っ込んでいってはたまに思い出したかのように思い出の品を見つけてはそれもゴミ袋に突っ込んでいく。
 いつの間にか朝になっていた。ゴミ捨て場にいくつかのゴミ袋を捨てに行く俺。外の空気に触れるのもこれが最後だと思うと、空気の層一枚一枚を感じるようにゆっくりとごみを捨てるのだった。
 さあ、これでもう思い残すことはない。俺の死体の発見者にも自信をもって顔向けできる。いや、それは何というか物理的にできないか。
 そうして再び椅子の上に立つ。
 いや、待てよ。椅子から空中に一歩踏み出そうと、その踏み出す先を見て気づく。部屋がきれいになったな。そしてあたりを見渡す。片付いた部屋。椅子の上に立ってみるとそれが改めてわかる。障害物のなくなった部屋に、換気の為に開けた窓から朝の太陽の光が部屋いっぱいに差し込み、もはや俺の部屋に陰を作り出すものは、椅子と、その上に立つ俺、それと吊るされた縄だけだった。もはや俺の部屋には、俺の周りには、俺を苦しめるものなどなかった。俺を苦しめる思い出はなくなっていた。陽の光に満たされた片付いた部屋で俺は、俺の陰に生きた過去が清算されたのだと思った。
 死ぬのは簡単だ。一歩踏み出すだけだから。逆に、一歩踏みとどまるきっかけさえあればまだ生きるのだ。部屋がきれいになった。たった一歩踏みとどまる程度の動機には、それだけで十分だ。今はまだ死ななくてもいいだろう。死にたくなったら、また簡単に死ぬことができる。一歩踏み出せばいい。ただ、今は、部屋いっぱいに差し込む陽の光に俺の死体が陰を作ることが、野暮なことだと思ったのだ。

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