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アルヴァ・アアルトとMoMA:アメリカの建築展覧会

セゾン美術館の「アルヴァー・アールト1898-1976」展(1998−99)のカタログ、つづきです。


この展覧会カタログ、ケネス・フランプトン先生ら当代きっての論客による論考を集めた、骨太なアアルト研究書となっています。なぜここまで豪華?


この国際性豊かなカタログの豪華さが実現したのは、セゾン美術館でのアアルト展が、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が企画・開催した「Alvar Aalto: Between Humanism and Materialism」展(1998年2月〜5月)の巡回展であることが大きく作用しています。


セゾン美術館のアアルト展カタログは、MoMAにおけるアアルト展開催時の公式カタログをベースにしています。さらに、芦原義信先生や内藤廣先生ら日本の建築家の文章を掲載し、日本の戦後モダニズム建築の文脈にアアルトとの接点を位置付けることで、複層的なヴォリュームとなっています。


展覧会史の視点から、アアルトとMoMAの関係性で注目されるのは、MoMAが最初にアアルト展を行ったのは、1938年3月〜4月に開催された「アルヴァ・アアルト:建築と家具」展であった点です。MoMAの公式サイトで、この時の展示の様子が残されています。

1938年の展覧会の際に発表された文章は、アアルト先生の初のモノグラフとなり、記念すべき資料集となったとのことです(セゾン美術館のカタログ内、年表より)。

とはいえ、この1938年の展覧会は、MoMAがアメリカ合衆国内においてアアルトの建築デザインを紹介した初の展示ではなかったようです。

それより数年遡ること、1932年に、MoMAは、近代デザイン史上で有名な「近代建築ー国際」展を開催しており、この時に、アアルトのフィンランドにおける実作がすでに展示されていました。


MoMAの「近代建築ー国際」展は、フィリップ・ジョンソンやヘンリー=ラッセル・ヒッチコック、ルイス・マンフォードの3人組が、MoMAの派遣により、ヨーロッパをなかよく旅したことから始まりました。なかよし建築3人組、旅を通じてヨーロッパのアヴァンギャルドの最新動向について、情報を収集し、1932年に、MoMAにて、モダニズム建築家を紹介する展覧会の開催にこぎつけました。

「近代建築ー国際」展で紹介された中には、ル・コルビュジエやミースら、アメリカ国内でもすでに一定程度の知名度のあった建築家も含まれていました。アアルトもまた、ヨーロッパの極北に位置する小国フィンランドから、モダニズム建築の代表格としてプロジェクトが紹介されました。

それから6年後に、MoMAはアアルト先生のワンマンショーを開催するわけですが。Machine à habiter !(「住むための機械」)やら、God is in the details.(「神は細部に宿る」)やら、著作や格言をバンバン出すような、おしゃべりで目立ちたがり屋の自意識過剰なモダニズム建築家がひしめくなかで、MoMAがオマージュをささげたモダニズム建築家は、はにかむような笑顔を浮かべる温厚そうな金髪の北欧人、アアルト先生であったことは、何を意味しているのでしょうか。

MoMAでは、1930年代以来、2021年現在にいたるまで、アアルト作品をとりあげた展覧会を、少なくとも32回、行っているようです。個人の建築家としては、90余年で30数回が、多いのか少ないのか、他の建築家の展示まで正確に調べていないのでわかりません。(*)

とはいえ、1938年という早い時期に、MoMAがフィンランドのアアルト先生のワンマンショーを開催していたことは、少し意外です。こうした展示は、MoMAという展示機関が、少なくとも1940年代にかけて、アメリカのモダニズム・デザインが参照すべき(唯一無二とまでは言わないにしても)ヨーロピアン・モダニズム(正確に言えばフィンランド的モダニズム?)のひとつとして位置付けていた、ことのひとつの証左になるのではないでしょうか。


MoMAが、なぜ、フィンランドのアアルト推しであったのかな、とちょっと考えてしまいますが、別に、アアルトが、他のモダニストたちのように自意識過剰ではなかったから、と言いたいわけでは(たぶん)ありません。

アアルトは、1937年のパリ万博、1939年のニューヨーク万博でフィンランド館を設計しており、また1933年のCIAM第4回(アテネ)への参加など、その活動は国際的なものとなっており、1938年のMoMA展覧会開催時には、まさに旬のヨーロピアン・モダニストとなりつつあった、という側面があります。

MoMAがアアルト先生推しだったのは、フィンランドの広大な自然と結びついたアールト先生のデザインの魅力と普遍性によるところが最大でしょうし、やはり広大な自然を抱えるアメリカにとって、いかにも神経質そうなパリジャンのル・コルビュジエよりも、アアルトのほうが参照しやすかったのか、などと勝手に想像します。

とはいえ、1938年から1940年代前半という西欧の政治情勢が微妙な時期に、MoMAがヨーロッパの辺境の地の建築家に精力的なサポートをつづけ、アアルトによるモダニズム・デザインを世界標準(?)にする推進力のひとつになったと考えると、地政学的にはどんな効果があったのだろう、とか、妄想を勝手に広げていたくもなります。アアルト先生、が、フィンランドの国家的なデザイナーだったからか、もしくは、アアルト先生、を、フィンランドの国家的なデザイナーにするためだったのか、そのあたりはどうなんでしょうね。


(*)ちなみに、2021年6月23日付で、MoMAのオンラインデータベースのヒット結果ですと、ミース先生の作品が紹介された展覧会は68回で、初個人展は1948年、ル・コルビュジエ先生の作品が紹介された展覧会は67回で、初個人展は1963年でした。


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