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SuperD「新日本帝国」覚え書き

※推敲してません。読みにくいです。何卒御容赦。

現代劇作家シリーズ9『日本国憲法を上演する』のうち、中学時代の演劇仲間が出演する、SuperDの公演をみた。
イベントページ→http://www.d-1986.com/nihon/

発話され、身体の動きを誘発するテクストとしての日本国憲法。憲法は、"リズムとグルーヴ"だけを残して非政治的なテクストたりうるか?という問題にぶち当たらされる、挑戦的な作品だった。

主宰の方は、アフタートークで、「日本国憲法から政治性を削ぎ落とそうとした」と話していたけれど、そもそもパフォーミングアーツという形式を選択した以上、非政治的なテクストなどありえないよなぁ……と私は思ったりした。それに、個人の価値観や意見がその人の政治的・社会的地位や制度、たまたまそのときの境遇によって規定されうる限り、何かを他者に向けて発信することはそもそも政治的な意味合いを帯びうる(「権力を持っている」とか「政治に関する意味内容である」ということとは関係なしに)。

とはいえ、日本国憲法のテクストを音声として体験するということは、条文の意味内容に加えてもうひとつのパラレルな感覚を自分に装備できることも確かだ。テクストから政治性を分離できなくとも、聞くという体験によって条文の新たな側面を浮かび上がらせた、という成果も覚えておきたい。

若者の政治的アパシー="憲法にリアリティがないよねと言い合えることがリアル"のありようの気持ち悪さを容赦なく投げ込んでくるところも、同時代性を感じる。一方で、政治的アパシーがなぜ若者を代表する態度といえるのか、ということについての自己批判も欲しかったりした。

憲法というテクストの外側に文脈を開かないと見えてこないことがあまりにも多すぎる気がして、くらくらする。

パフォーミングアーツという文法とその強度を、小劇場という空間で久々に味わった。

(2019.05.08)

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