やさしいほうへ

 急に仕事が嫌になって休んでしまった。四日間もである。

 我がことながら情けないが、定期的に起こることなので半ば諦めてもいる。

 ずいぶん前から仕事が辞めたくて仕方なかった。どうにも合わないのである。嫌々やっているうちに自律神経がおかしくなってきた。最初は眠気だった、それは全身の倦怠感になって、だんだん気持ちも落ち込んでいく。こんなことではいけないと活動すると、途端に疲れ切ってしまう。

 心がしっかりしていなければ、いくら環境を変えてもだめ、という言説はごもっともだ。でもそれは心の強度が正常な人向けの話ではなかろうか。

 職種の合う・合わないというのも、私にとってはどこにいても体が痛いものだから、せめて少しでも痛みを感じない位置に落ち着きたいというくらいの切実な話なのだが(痛みがあるのは前提である)、健全な人からすると、「痛いのが嫌だ」というただのワガママにしか見えないのは知っている。知っているだけで理解はしないが。向こうが理解できないのだから、こちらも歩み寄る気などない。

 「ひとりで抱え込まずに他人に相談したり吐き出しなさい」という助言にも頷けない。受け止めてもらえるような話ならするのである。

 昔からそうなのだが、必要以上に神経が張り詰めているのだ。そのために、今必要な情報の選別がうまくできない、身体が思い通りに動かない、とにかく五感がうるさい、という弊害がある。「落ち着け」とはいわれるが、不随意なのだからどうしようもない。呼吸法だ、瞑想だ、自律訓練だ、自助努力はしてみたものの、目覚ましい効果はなかった。

 このように刺激に対して敏感すぎるが故の苛立ちを人に話したところで、「我慢が足りない」といわれるのが関の山だ。そんなことは千度自分で自分にいっているので、他人にいってもらうまでもない。時間の無駄だ。

 誰にもいわれないし、認めてももらえないから、悪あがきで自己弁護するが、こうやって人間をやっているだけで私は十二分に頑張っているのだ。周囲の雑音も蛍光灯のちらつきも他人の柔軟剤のニオイだって微塵も気になりませんよ、という顔で生きているのだけですでに限界である。生きているだけでつらいのだから、何をやっても悲観的になるのは当たり前ではないか。

 私における相談のできる他人というのは家族や知人ではなく、カウンセラーということか。相談をするにも金が必要とは、私はいったい前世でどんな罪を犯したというのか。

 メンタル面の問題となれば、当然会社側から聴取を受けるのだが、「辞めたい」という一言がどうしてもいえなかった。辞めたいならそれでもいい、という言葉を聞いてもだ。精神の脆弱性を指摘されると、どうも悔しいような気持ちがしてしまう。こういう場面で「どういわれようが結構ですよ」といえれば辛くなることもないのだろうが、それができていればこんな情けないことをする羽目にもならないのである。

 持ち場に戻っても、これではなんの解決にもなっていないのではないか、やはり後出しでもいいから言うべきではないのか、このまま続けてもどうせまた同じことをやるのではないか、うにゃうにゃと考えてしまう。

 ——ああ、こういうときに「アレ」を使うのだ。

 休んでいる間、単にめそめそしていたわけではない。どうせよく転けるのなら、足元のぺんぺん草でもいいから掴んで立ち上がるのが信条である。

 前述の通り、専門家以外の他人に頼ることなどはなから考えていない。自力で根本から解決する方法はないのか、と、あれこれ切り口を変えてネットで心理系の記事を検索して、FAP療法というものにたどり着いた。「心よ!」と呼びかけることで、潜在意識にアクセスするというものらしい。

 休んでいる間、ずっとこれをやっていた。自問自答と何が違うのかはわからないが、常識や善悪のしがらみがない単純な欲求をあぶりだすことはできた。返ってくる答えは笑えるほどに率直である。

 そこで「仕事をやめたいか?」とたずねると、「やめたーい!」と元気よく返事してくれる。正直すぎる。自分の心なのだから当然である。だが、「じゃあ今すぐ辞めたい?」と訊くと、「どっちでもいい、同じことだから」と妙な答えを返してくるのだ。

 仕事中なので深掘りすることもできず、もやもやとした気分をそのままにして終業時間を迎えた。

 朝の出勤時には音楽など聴く気にもならなかったのだが、ふと、そうさんの『傷つけたっていいんだよ』が聴きたくなった。今の仕事を始めてピークに辛かったとき、ボロボロに泣いた曲である。

 ところが、『やさしいほうへ』というタイトルが目に留まったので、それを再生した。いいなあ、そうさんの曲は心が落ち着くなあ、と油断していたのがまずかった。

 まちがってても にげてでも やさしいほうをえらぶんだって

 あまりにも優しい言葉に泣いた。運転中、しかも外は暴風雨なのに、泣いた。危険極まりない。

 私は自分がどちらを選んでもいいとき、仕事ならつらいほう、大変なほうを選んでしまう癖がある。何かの権利なら、本当に欲しいものを避けてしまう。

 「こんなことではダメだよ」とはいうが、私だって、いろんなことが人並みに平気になりたいのだ。些細なことでいちいちうずくまるような弱い自分は嫌だ。自分がいかに甘えた人間かなんて、私が一番よく知っている。

 これを乗り越えれば、これができるようになれば、これを我慢できれば——それで強くなれたか、自分が好きになれたかといえば、この樣だ。自分のためだと思ってやってきたことは、単に自分を苦しめていただけだった。

 心の世界には正しいも間違いもない。何もジャッジしない。弱いことが悪という概念もない。私はこれでいい。

 なるほど、心はこれをいちばん伝えたかったのだ。

 仕事を辞めるとか、辞めないとかは、とりあえず脇に置くことにした。

 いまはただ、やさしいほうへ。


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