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名馬物語 ~稀代の快速馬 サイレンススズカ~ その1

※馬齢表示が現在と異なっています。ここでは当時の馬齢表示をしています。現2歳→当時3歳 現3歳→当時4歳 など
また、専門用語をわかりやすい表現に置き換えている部分があります。

1994年5月1日。北海道平取町の稲原牧場に、ある1頭の牡馬(ぼば:男の子)が産まれました。
その馬の名はサイレンススズカ。のちに日本中の競馬ファンに衝撃を与える運命となった馬です。
JRA(日本中央競馬会)のCMで「最速の機能美、サイレンススズカ。速さは、自由か孤独か」と語られました。

・誕生

彼はとある偶然により産まれました。
その偶然とは、種牡馬(しゅぼば:お父さん馬)でした。
当初、彼のお父さんになる馬はバイアモンの予定でした。しかし受胎しなかったため、再度交配させるのに交配の権利を持っていたトニービンを選択しようとしていました。
このトニービンは産駒(さんく:子供)がデビュー2年目で、春に行われていた大きなレースで結果を残し、お父さんであるトニービンの評価がうなぎ上りとなっていました。
この子供たちの活躍が運命を分けたと言っても過言ではありません。
なぜなら、評価が上がる事により交配希望が殺到したため、サイレンススズカのお母さんとなる繁殖牝馬(はんしょくひんば:お母さん馬、肌馬)、名はワキアといいますが、発情期となった時、トニービンのその日の種付け予定が埋まってしまっていたため交配ができませんでした。
時期はすでに交配シーズンの終盤となっており、このままではトニービンと交配させることができなくなってしまいそうでした。

そんな時、牧場関係者からサンデーサイレンスなら今日の予定は空いている、と提案があったのです。
このサンデーサイレンスという馬、産駒はまだデビュー前で種牡馬としては未知数でしたが、競走馬時代はトニービンに引けを取らない実績を持っていたため配合してみることになりました。
これは、もし2年遅かったら到底あり得ない偶然でした。
サンデーサイレンスはこの数年後より日本競馬を塗り替えてしまうほどの大活躍となったのですから。

そうした偶然の中で無事交配を終えて、彼は誕生しました。

・幼少期 誕生

彼の幼少期は5月1日という遅生まれで(競走馬は2月から3月産まれが多いのです)、体も華奢で特に目立つところもなく、特徴と言えば父が青鹿毛(あおかげ:わずかに褐色が混じった黒色の毛色)、母が鹿毛(かげ:赤褐色系の毛色)であったのに、産まれた仔馬は栗毛(くりげ:黄褐色系の毛色)であった(母の父、つまり祖父が栗毛でした)こと、やたらと人懐っこくて可愛らしい事と、馬房内で左回りにくるくる回る旋回癖があった事くらいでした。

・4歳春 期待

早い馬で3歳の夏にデビュー迎えますが、サイレンススズカのデビューは4歳の2月1日、京都競馬場となりました。
橋田厩舎に入厩し、この頃には調教での評価が高く、遅れてきたサンデーサイレンス産駒の大物、という期待をされるようになっていきました。

そんな前評判通りにデビュー戦は圧勝で飾り、事前に噂を聞きながらも同レースを別の馬で騎乗する予定があり、もし自身に先約がなく、予定が空いていたら騎乗依頼が来たかもしれないのに、と悔やんだ天才ジョッキー武豊騎手は、
「今年のGⅠ皐月賞も日本ダービーも全部持っていかれる、痛い馬を逃した」と危機感を感じたと言います。
GⅠとはグレードレースの区分けのひとつでジーワン、グレードワンと呼び、最も格の高いレースになります。グレードレースにはⅠ・Ⅱ・Ⅲとあります)
皐月賞(さつきしょう)とは4月に行われる4歳牡馬・牝馬限定の最初のGⅠ競走です。中山競馬場2000mで行われ、最も速い馬が勝つと言われます。
日本ダービーとは、正式名称を東京優駿(とうきょうゆうしゅん)といい、5月の最終週か6月の初週に東京競馬場2400mで行われる4歳最強馬を決める4歳牡馬・牝馬限定のGⅠ競争です。最も運のいい馬が勝つと言われます。

そしてサイレンススズカ陣営は4月に中山競馬場で行われるGⅠ皐月賞を目指すこととなりました。しかし、皐月賞に出走するためには優先出走権を得るか、獲得賞金の上位でないと出走できません
彼はまだ1勝馬。獲得賞金では間違いなく出走できません。そのため優先出走権を得ることのできるトライアルレースに登録します。
そのレースは3月2日に中山競馬場で行われるGⅡ弥生賞。このレースで1か月前にデビューしたばっかりで、まだたった1戦しかしていない彼が2番人気に支持され、いかに期待が大きいかを物語っていました。
しかし、このレースにおいて彼は大失態を犯してしまいます

その大失態とは、スタート時にゲート内において鞍上(あんじょう:騎手のこと)の上村騎手を振り落とし、ゲートを潜って抜け出してしまったのです。
その後、馬体に異常がなかったため出走を認められました。
しかし上村騎手は脚を強打していて激痛に襲われていたのですが、それに耐えて騎乗していたそうです。その理由はもし乗り代わりになった際、手が空いていたのが岡部幸雄というベテラントップジョッキーだったので、もし岡部騎手が乗って結果を残されたら、もう二度と自分が乗れなくなるという危機感があったそうです。

そうして今度は無事にゲートに収まりました。と思いきやゲート内でまたもや暴れだし、前脚を浮かしたところでゲートが開いたためスムーズに出ることができず10馬身もの出遅れを喫してしまいました。

こうなるともうレースにはなりません。しかし、ここで期待された地力を発揮します。
第1コーナーまでに10馬身の差を縮め、最後尾に追いつきました。そして、じわりじわりと前方へ進出していくと4コーナーでは先頭集団に並びかけようかというところまで来ていました。
ですが、このような走りをしていてはいくら地力が有ろうとスタミナは削り取られもう残ってはいませんでした。
そのまま最後の直線で力尽き、1着馬ランニングゲイルから1.5秒離された8着となってしまい、皐月賞の優先出走権の獲得はできませんでした。
しかし、スタート時のトラブルと10馬身の出遅れを考えると、見せ場を作りながら8着にまで来たことで怪物の片鱗を見せつけるけっかになりました。

しかし、まだトライアルレースはあります。チャンスは残されていました。
ですがレース後、その希望を打ち砕く裁定がなされてしまいます。ゲートを潜ったことによりゲート発走の再試験と3月23日までの出走停止を言い渡されました。

このゲート潜り事件の原因はいろいろと言われています。父馬のサンデーサイレンスは気性がとても激しく、それを受け継いでいるのではないか。まだ若く精神的に大人になっていないのだろう。
その中で最も有力とされるのが、ゲートインまでは厩務員が手綱を引いて一緒に入っていきます。そしてゲートに収まると厩務員はゲートを潜って出ていきます。
人懐っこいサイレンススズカは厩務員がいなくなったことで寂しくなってしまい、厩務員を追いかけてゲートを潜ったのではないか、と。
しかしあくまでも推測。本当の理由はサイレンススズカにしかわかりません。

3週間後、じっくり行われたゲート練習により、無事ゲート試験をクリアしたサイレンススズカは、次の目標を日本ダービーに定めました。
そのためには確実に出走できる体制を整えなければなりません。
まずは獲得賞金を増やすため、4月5日に阪神競馬場で行われる500万下(獲得賞金が500万円以下の馬が出走できる)と呼ばれる条件レースに登録しました。
このレースではゲート内で暴れたりすることはなく、スムーズにスタートを切りました。
1コーナーまでに先頭に立ち、そのまま道中を無難に進行。ゴール前直線に入ると加速の合図である鞭を2発ほど入れスパート。この時点でついて来られる馬は一頭もおらず、残り100mの時点で力を抜きそのままゴール。
2着馬には7馬身もの差がついていました。

無事2勝目を挙げたものの、まだ賞金はダービーに確実に出走するのには足りず、トライアル競走に勝つ必要があります。
そこで選ばれたレースが、ダービーと同じ条件の東京競馬場2400mのGⅡ青葉賞でした。
ですがここでアクシデントに襲われます。青葉賞の1週間前に左前脚の球節(脚の下部にある関節)に腫れが出てきたのです。
検査の結果、球節炎と診断されました。幸いにも症状は軽く、翌日には炎症は治まっていました。

競走馬の構造外見


しかし、馬に負担はかけられないため青葉賞を諦め、状態を見ながら翌週の東京競馬場で行われるトライアル競走プリンシパルステークスに出走することにしました。
しかし、ここで強敵が姿を見せます。あの弥生賞で優勝したランニングゲイルと再び顔を合わせることとなりました。
そして、この負けられないレースに見事に勝利し、ダービーの優先出走権を獲得することに成功しました。


続きます。
次回はいよいよ迎える大舞台、日本ダービーです。

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