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山岳救助隊員が経験した「異界の稜線」

山には、私たちの知らない何かが潜んでいるのかもしれない――。

かつて山岳救助隊として活動していた私が、今でも時折思い出しては背筋が凍る、ある捜索活動の記録を共有させていただきます。

不可解な捜索要請

その日は初冬のことでした。丹沢の奥にある御前山(標高1,400m)で、単独登山者が行方不明になったという捜索要請が入りました。

捜索対象は中村さん(40代・男性)。登山歴15年のベテランで、最近は沢登りにも精通していた方でした。日帰り登山のはずが帰宅せず、残された登山届には御前山の周回コースが記されていました。予定では6時間で下山する計画だったそうです。

違和感の始まり

4班に分かれて捜索を開始。私のチームは2名で沢筋のルートを担当することになりました。中村さんが沢登りの経験者だったため、メインルートを外れて沢に迷い込んだ可能性を考えてのことです。

しかし、正午過ぎから、状況は少しずつ奇妙な方向へと傾いていきました。

  1. 支流との合流点にあるはずの大きな岩が消失

  2. 地図と現地の地形が明らかに食い違う

  3. 奥へと誘うように付けられた謎の赤いテープ

  4. 原因不明のコンパスの狂い

異界への入り口

渓谷は次第に狭まり、両側の崖が切り立ち、周囲は薄暗くじめじめとしていました。時計は14時を指していましたが、まるで夕暮れのような不気味な雰囲気に包まれていました。

そして三つ目の支流との合流点で、私たちは衝撃的な発見をします。

岩陰に置かれた一つのザックと、整然と揃えられた登山靴。間違いなく中村さんのものでしたが、本人の姿はありませんでした。

最後のメッセージ

ザックの中から見つかったメモ帳には、不安に満ちた最後のメッセージが記されていました。

『私はもうわかってしまった。この沢は、地図にある沢ではない。コンパスは狂い、GPSは圏外を示し続ける。木々のざわめきの中から、時折笑い声が聞こえる。この沢は、どこかほかの場所とつながっているのかもしれない。私の知っている山ではない。でも、もう疲れた。靴を脱いで少し休もうと思う。眠くて仕方がない...』

歪む時空

引き返そうとしても同じ場所にループしてしまう空間。しかし突如として鳴り響いた雷のような音とともに、切り立っていたはずの崖が霧のように消え、見覚えのある本流の風景が現れました。

時計は捜索開始からわずか1時間後を指していましたが、体感では少なくとも4、5時間は経過していたはずでした。

謎に包まれた結末

中村さんの遺体は三日後、私たちがザックを見つけた場所から2キロ以上離れた別の支流で発見されました。警察は低体温症による死亡と判定しましたが、不可解なことに遺体には靴が履かれていました。では、私たちが見つけた靴は、いったい誰のものだったのでしょうか。

山に潜む「何か」

この事件は公式には「道迷いによる遭難死」として処理されましたが、私は今でも確信しています。あの日、私たちは一時的に、この世界とは異なる「どこか」にいたのだと。そして中村さんは、その「どこか」から戻れなかったのだと。

今でも山を歩いていると、木々のざわめきに混ざって誰かの笑い声が聞こえる気がすることがあります。そんな時は即座に引き返すことにしています。

地図にない沢、コンパスも狂う空間、そして迷い込んだ者を決して帰さない「異界」――。山には、私たちの知らない何かが棲んでいるのかもしれません。

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