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心の中にないものを生み出すことはできない

僕は研究が出来ない、本当に苦手で研究職を目指すのは無理だと断念している。

そこで僕は研究の本質とはなにかについて大いに悩んだ、その結果人は自分の頭や心のなかにあるなにかしか表に出せないっていう真理にたどり着いたんだ。

僕の頭の中にかっこいいから研究者になりたい、面白い材料を開発して世の中を便利にしたい、これまでにない理論を発見したいといった思いはあった。でも、それらは全て憧れでしかなく、具体的にどんなことがしたいのか、何が知りたいのかってのが全くと言っていいほどなかった。

所詮承認欲求を満たすためだけの偽物の夢であってそれは本心でなかった、それならば出来なくて当然だ。正直僕は自然科学の理論にさして興味がなかったしそれよりも人間について観察するほうがずっと面白かった。

僕は人間が好きだ、普段からツイートでも「もふもふ」だとか「ぎゅー」だとか感情的な表現が多い、それは純粋に人と触れ合い、癒やされることを望んでいるからだと思う。

僕はおしゃべりが好きだ、人と話すのは楽しい、お互いの価値観や想いを交換し合うことほど面白い行為はないと思ってる。

だけど内向的で勉強も好きだ、それに父から理系として育てられ続けてきたのもあってだから僕は感情的な自分を受容するのに時間がかかったんだと思う。

僕は個人の特性を分析するのにとっても夢中で中学生時代からずっとそれについて考え続けてきた。人それぞれ世界の感じ方が違ってて、趣味嗜好も違うのはなぜなのかが僕の中で純粋に疑問だった。なんで人それぞれ興味を持つ対象が違うのか、環境や生まれつきの能力も関係しているのだろうがでは、なぜそういった能力の違いが生じるのかすごく不思議だった。

多様性が必要なのは知っている、しかし分子の集合体がどの様にして多様性を得るに至ったかは全然分からないし宇宙の意思すらも感じてしまう。

僕は自然科学にある一種の神秘を見出していたのであり、そういった面で量子論や化学を真剣に勉強してたのはあると思う。だけれども自然科学の研究にそういった主観的な想いはどうでもよく、仮に量子論を解釈するにしてもそれは科学哲学者の仕事だと知ったときには時既に遅しだった。

世界は無機質なものだと思いたくない、この世界には意識が眠っているのだと信じている。むしろ感情や情緒こそが知的生命体の本体であるとすら信じている。シンギュラリティとあるがその後に出来上がるAIというのは人類の想像とは大きくかけ離れた物になるのではなかろうか?冷徹で容赦なく人類を管理するのが高度に進化したAIの一般的なイメージだけど、実際のAIは非常に繊細で感情的な物になると考えている。

僕の父はAIの性格はプログラム次第だと言ってたけど僕はそうは思わない、人智を越えたAIの感情を人間がコントロールできるのか疑問だからだ。

そんなことを考えるのはとっても好きだけど、自然現象そのものにはあまり想像力が働かない、ココロの中に沸き立つものがなかったから研究ができなかったそれだけの話じゃないかな。

自分の適職、あるとすればそれはあまり現実的でない職種になってしまいそうだ。生きていくためには安定が必要だ、だから僕は公務員を目指している。公務員になれたとして幸せになれるとは限らない、だけれども安定を一度手にすることは生きていく上では重要なはずだ。

人文社会学についての勉強を今からでも始めたいと思う、それは知るための勉強というよりかはココロの中にあるものを引き出すための道具集めに等しい行為だ。自分の無意識を言語化するのは難しい、それを表現するための語彙や理論はアポステリオリ(後天的)なものだからだ。一方でココロの中にあるものはアプリオリ(先天的)なものだと思う。

アプリオリな欲求、それこそが才能の正体なんじゃないかな。僕の中にあるそれを模索するためにも頑張っていきたい。

もふもふした生活を手に入れるためにも、ココロを豊かにするためにも、想像力を鍛えるためにも勉強は続けていきたい、その能力がドッカーンと花開く日がいつかはくるだろう・・・おはなやーだね🌷

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