悪者清盛

殿下乗合まで読み進めた。清盛が摂政殿下への報復を行ったことが平家の悪行の始まり、らしいです。

解説によると実際に報復を行ったのは重盛で、清盛が悪で重盛が善というか少なくとも慎み深い人物という構図は平家物語の設定らしい。
平家物語を創作として読む上で、平家物語の世界に入り込み、その世界では書き記されたことが事実という認識でいるので、清盛には悪者でいてもらいましょう。
事実とは相反するキャラクターが設定されるのは創作の常なのかなと、東映実録路線を思い浮かべたり。だとすれば、事実を敢えてひっくり返した方が創作しやすいのか、それは何故かという疑問が生じる。善人を善人として描いても面白くないということか。

さて、清盛といえば悪者というイメージは平家物語を通読する前から自分の中にあったのだが、これはいつからそう認識していたのだろう?
平家物語の清盛があたあた言って死んで行くのを知った中学国語の時点でそういうイメージを持っていた気がする。
教科書で扱ったのは祇園精舎、敦盛最期、那須与一かな?何故そのエピソードが選ばれているのかはよく分からない。
関連学習をどこまでさせるかは先生によるわけだが、あの先生は国語大好きで熱心だったのだろうなと思い出す。「古文だって日本語なのだからわかるはず」「古典知識があれば内容はわかるはず」という主張は、受験科目についての発言としてどうかと思ったが、授業は楽しかったかな。
流石にその頃は平家物語を読もうとは思わなかったもので、試験や問題集で扱われた内容を少し読んだくらいで、「あたあた」と出会ったのもそういう偶然ながら、悪者清盛の印象だけが残っていた。

清盛は悪者であると信じて読み始めると、禿髪などはもう悪行にしか読めない。悪口さえ言わせないために禿を使い、人々を怯えさせて、なんて悪いやつだろうと思う。どんな賢王のことでも悪くいう奴はいるものだが、平家の悪口を言う者はいない、という内容にさえ、平家は非道な振る舞いをしているのにも関わらず悪口を言われない、と勝手に深読みしてしまうほどに。
でも、この段階ではまだ平家も清盛も悪ではないのだろうな、正しくは。
解説でも、批判を封じるのは弱さであること、禿は権威の誇示の役割があることが指摘されているけれど、ここは単に清盛が平家の強さを維持するために工夫したエピソードでしかないのか。

祇王も同様で、身勝手に振る舞う清盛を悪いやつと思って読みたくなるけれど、それだけ権勢を誇っていたというだけで。祇王と仏の物語は、白拍子の身における諸行無常の表現と、仏教説話的な側面が強いのかもしれない。

清盛は悪人という先入観で読むとそうしか読めなくなるという反省と同時に、平家物語が言う「悪」が自分の思う「悪」と乖離しているという認識も持った。
殿下乗合も相手が摂政だから悪行なのか、先例がないから悪行なのか、どこに重きがおかれているのか微妙で分からないなぁ。

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