倉田百三『俊寛』

この作品では俊寛が熊野信仰に参加しているのが特徴的。苦難の中に神への信仰心を持つようになったという。
成経は日々嘆きながら海を眺めているが、熊野詣には興味を示さない。康頼は島を熊野に見立てると共に、卒塔婆を流す。

しかしながら、舞台に登場した俊寛は信仰を疑い、自身の不幸だけを確かなものと認識している状態。
場面が変わって成経と食料を巡って争ったかと思うと、船の姿に不安を募らせて成経と康頼に救いを求める。2人はそれに応じるが、結局俊寛を見捨てて帰り行く。

俊寛が異様なまでに不吉な想像に囚われたのは何故か。赦免されず孤立するという不幸を予期したのか、あるいは悪い予感が悪い現実を引き寄せたのか。運命の捉え方や未来と現在の関係について考えさせられる。
あるいは信じ始めた神を疑うこと、共に暮らす2人への侮蔑的な言動が罪であるせいか。

有王が訪ねた時、俊寛は餓鬼のような姿である。妻や息子が死んでいるだけでなく、娘も尼になった上で谷で果てている。これによって、最早有王が仕えるべきは俊寛のみとなる。そして俊寛が死を選び、有王もまたそれを追う。

赦免されぬと分かるまでの段階で、荒ぶったり悲観的になったりしている俊寛は酷く不安定であり、独り残されてから有王と再会するまでを死に切れなかった苦しみは台詞からも明らか。その後、清盛を呪詛して死を選ぶことは寧ろ理性を保てているのだろう。
となると、俊寛が救われることを祈って死ぬ有王はなんと罪深いのか。主を追って死ぬのは勝手だし美談なのかもしれないが、その祈りは不忠であろう。

当人の人生というミクロな視点では、不幸の原因は自信にあるのだから自業自得という場合でも、物語が設定した絶対的悪へ報復する行いは善かつ美徳と扱われる文化があるよね?と思うと余計にそう感じる。

順番的には芥川より先にこちらを読むべきだった気もするが、興味を持った順に読み進めてしまった。
芝居というものが基本的に苦手なので、戯曲を読んでいてもその芝居がかった台詞はやはり違和感があってならない。翻訳だと翻訳文の独特さによって誤魔化されて読みやすくなったりするのだが。

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