普通という言葉にコーティングされた見えざる刃。

恋愛、結婚、出産。それが世の中のスタンダード。思えば、幼稚園くらいの頃から誰が好きだとか言う話題は付き纏う。
其れは、大人になっても、老いても、こびりついた垢のように。
私はその手の話題が本当に苦手だ。幼い頃から、大人の今でも。恋愛以外に、婦人科系のワードなども目に入れたりするのも苦手で、病院の待合室では倒れたこともある。

挨拶がわりに交わされる「彼氏はいる?」「結婚はしている?」吐き気がする。渇いた笑いを浮かべながら「いませんよ」というのも、つかれてきた。
そもそも彼氏だと決めつけるのも失礼な話ではないだろうか?彼女かもしれないのに?
しかしながら、彼女でもない。

恋愛ができないと言えば理解されず、欠陥だと思われる。
ひととして、機能不全だと思われる。

昔から嫌だから避けても、避けきれなかった。幼い頃に、ハッキリ嫌だと言ってもクライスメイトから理解されなかった。水族館の水槽みたいな、分厚い硝子に隔てられたような感覚。

恐らく、Aセクシャルではなかろうかと最近になって気付いた。それを理解してもらおうとは思わないけれど、踏み込んでほしくはない。

生きていく上で避けられない、でも、日々の中何気なく投じられるそのことばは知らずにひとを切り裂いている。

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