学生に共感しすぎて疲れるという話

期末試験の時期だ。コロナ禍の中で大学非常勤講師を勤め始め、今年で4年目にあたる。一昨年~去年あたりから、対面での期末試験実施も一般的になった。そしたら、期末試験の時間や教室を間違えたから試験が受けられず、自動的に落単する学生が現れる。初めてそのような事態にあった時、私はしばらく自分事のように落ち込んだことがある。

というのは、やはり対面授業はオンラインと違った。一人一人の顔を見て一学期も講義しているから、文字通り「見てきた」子たちだ。出来の良し悪しに関わらず、愛おしく思う気持ちがある。だから、試験を受けなかったという理由で一学期の学修成果がなしとなるのは、自分事のように感じてしまって落ち込む。でもその気持ちは、同じ非常勤講師をしている友人に話しても、あまり理解されない。

学生にそこまで共感する必要がないのは分かっている。ただその感覚を持たずにはいられなかった。講師を勤め始めた頃にはそのようなことで精神的消耗が多かった。学生の理解度が上がらないと、すぐ自分の教え方に問題があるんじゃないかと思ってしまう。学生から「授業中私語する人を注意してほしい」と言われると、その子に申し訳なく思ってしまう。相手から責められることがなくても、とにかく自分の方に責任があると思う癖がある。今後改善すればいいだけの話だと分かっていても、頭からずっと離れない。自分ではコントロールできない。でも他の非常勤講師をしている知人の話を聞くと、そういうふうに思わない人の方が明らかに多いように感じる。学生の出来がよくない場合、学生の方に問題があると考える人が多いようだ。そういう人たちのことが羨ましかった。私みたいな精神的消耗が少なくて済むから。

初めて持つ科目で、授業が終わるたびに、「上手くパフォーマンスできなかった」と落ち込む時期があった。でもその感覚を他人に話すと、やはり理解されることはなかった。非常勤講師4年目になるとようやく、授業が終わったら授業のことを考えるのをやめることができた。学生が期末試験の時間や教室を間違えたような事態に対しても、他人は他人、自分は自分、と割り切ることができるようになったと思う。

最近、HSP(Highly Sensitive Person)に関する本に「自他の境界線があいまい」と書かれているのを読んで、納得するところがある。実は、この手の本は、これまで手に取るのに躊躇があった。HSPという言葉は最近よく見聞きしているが、 安易に流行りの言葉で自分を定義づけたくないという気持ちはあった。でも今思うのは、HSPに当てはまるかどうかはそんなに重要ではなく、このような本に書かれていることは、自分をもっと生きやすくするために確かに効くところがある。ありのままの自分を受け入れながら、外界と折り合いをつける方法。

私は、元より自他の境界線があいまいになる傾向のある人間だと思う。思えば、そのことは、第二言語(特に日本語)の習得には有利だったのかもしれない。つまり、第一言語を介さずに第二言語を「感じる」ことができ、第二言語であっても言葉のニュアンスを理解することにさほど困難を感じない。というより、第一言語と第二言語の間に根本的な違いがあるとは思っていない。だから、世の中の大多数を占めるような「母語と母語以外の言語の間に越えられない壁を感じる」タイプの人間に言語を教えることは、実は私にとってかなりの挑戦であった。

自分と他者との間にあまり境界線を感じない、他者に共感するのが当たり前、そういう感覚を持って生きていると、他人とのギャップにショックを受けたり、傷ついたりすることが多い。今は少しでも、他人と自分の感覚は違うということを受け入れて、他人は他人、自分は自分と割り切ることができるようになったと思う。そうでないと、エネルギーを吸い取られやすいから。


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