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9-1 下僕、爺に感謝し過ぎる ~小説「女主人と下僕」~敗戦奴隷に堕ちた若者の出世艶譚~



その後、ディミトリが、マーヤの屋敷からザレン茶舗に戻って2、3日程経っただろうか。

茶舗に戻ったディミトリは、恋するもの特有の、隠しきれない喜びに、はちきれんばかり。どこか浮ついた調子ではあれど、非常に精力的に働いていた。

店を閉め、夕食やらも済ませた夜遅く、ディミトリは、茶舗の屋根裏部屋の自分の部屋に戻るまえに、ザレン爺の酒のつまみの夜食を載せた銀の盆を携えて、ザレン爺の書斎に立ち寄った。


「入れ」

女主人と下僕 爺細


ザレンの部屋に入ったディミトリは丁寧に銀の盆をチークの応接テーブルの上に置いたあと、片膝ひざまずき、丁寧に礼を述べた。上気した頬の間のふたつの黒い両目は潤むように光っていた。


「ザレン様…!本当にありがとうございました...!」


「その様子では、マーヤとはまあまあ上首尾に行ったようだな?」


「はい...!口約束ではございますが、私が正式に市民権を取った暁には一緒になろうと約束を取り交わしまして」


「ほう。ほう。聞かせてくれ。マーヤ殿は何と?」


ザレン爺は、書き物机から立ち上がって応接テーブルに座り直し、下戸のディミトリのために、ディミトリには水差しの水を、自分には酒をグラスに注いだ。


そしてさきほどディミトリに給仕させたハムやらチーズやらをディミトリに与えながら、自分は葉巻を吸うか、酒ばかり舐めていた。

はじめの間は、ディミトリも、顔を真っ赤にしながら照れ照れと口ごもっていた。

だが、そもそも目の前のザレン爺はディミトリに色事のいろはを仕込んだ張本人である。

マーヤと取り交わした将来の約束事をザレン爺に丁寧に報告するうちに、ディミトリの話は止まらなくなっていった。


そのうちディミトリは、将来の約束事どころか、本当は、他の誰にも言うわけにはいかないはずの、秘事の自慢を、黒い瞳を一層黒くキラキラさせてながら、ここぞとばかりに漏らしはじめた。


「...はい、そうです。...そそそれに、俺に見つめられただけで!見つめられただけで!身体が熱くなるわ、なんて仰ったり、何度もご自分から口づけもねだって下さっで...へへ...じつはその…俺のその...あの部分すら、ご自分から触れてくだすったんだ...決して嫌われてはいねえはずです...!」

「おい、いちおう念を押しておくが、本来ならば、女との秘め事やらその時の嬌態やらはな、たとえその女と関係したのがどんなに周知の事実であろうとも、たとえケンカ別れした後だろうとも、決して、決して漏らしてはならんものなのだぞ?」

ディミトリはハッとした表情になって謝った。

「申し訳ありません」

「うん。わしにではなく、マーヤに、な。だが、ま、ここだけの話、わしはお前の色事の先生だからある程度は知らざるは得ない。ここはまあ役得だな。ただし他の男友達には...金輪際言うてはならんぞ?どんな男でも、女と通じれば、正直なところ、女との秘め事を世界中にでも自慢したくなる気持ちが沸いてくる。だがそこを我慢するのが色事師、じゃなかった男として当然のマナーだ」

「それは重々承知しております。そもそも俺の身分では決して漏らせる話ではございませぬ」

「それにな...そういう話をばらすような浮かれた礼儀知らずにはおおよそ天罰が下る」

「天罰」

女主人と下僕 タコ挿絵

「女の気持ちを思いやることも出来ずに、平気で女との秘事を漏らすようなうかつな男はたいていその女をひょいと盗まれる...例えば秘密を漏らした相手にな。ふ、ふ、ふ。大事な大事なマーヤ殿をこの目の前のよぼよぼ爺いに奪られてぴいぴい泣いても...知らんぞぅ?」

ディミトリは一瞬ポカンとした顔をしたが次の瞬間、失笑めいた笑みを隠すようにしながら

「ご、ご冗談を!ザレン様はそんな方ではありません!」

と慌てて続けた。

ただ、その時のごくわずか、取り繕うような失笑の雰囲気、つまり、


(この爺い、何を言っているんだ、いくらなんでも、こんなよぼよぼの爺いに、これだけ若い、男盛りのこの俺が、負けるはずなんて、あるわけがないのに)

という、恋に盲目になっている男特有の、奢った態度というか、体力の絶頂の雄として、死にゆく老人を軽んじつつ哀れむような、そんな心が、ほんの、ほんの一滴、含まれていなかったかというと、嘘になる。

だがザレンはそんな恋に奢ったディミトリを悠々と受け止めながらディミトリの話を聞いていた。

ディミトリは、さっきの押し隠しきれなかったほんの一瞬の失笑をごまかすためにも、ザレンに畳みかけるように、いつも感じている深い感謝の意を口にした。

「ここに買われてきてからのこの10年間、ザレン様が俺に理不尽に意地悪なすったことなどただの一度もねえ。それどころか、奴隷身分の俺を、常にまるで家族同然に、いや、家族以上に!優しくしてくださった...今回も俺に、身に余る、ありあえないような手助けをお与えくだすって...おかげでマーヤ様と将来を誓い合う仲になって…俺はザレン様を、魂の底の底から、信用しております!」

「それがいかん」

「はっ?」

「男はな、世界中の人間をなんぴとたりとも信用してはならんのだ。とりわけお前は、商売人としてこれから生きていかねばならぬのだから...」

「いえ!そのような事は仰らないで下さい。私はザレン様を一生信用します!」

「いや、ディミトリよ、だから」

ディミトリはザレン爺の両目をじっと見つめて続けた。

「私はザレン様が本当の父か祖父でないか思う時があります...いや、ザレン様がどう思おうと、俺の中ではもうザレン様は俺の本当の爺様です。本物の爺様どころか、それ以上の存在だ。商売の先生であり、人生の恩師でもある...あっ、こんな時間か、失礼します!」

晴れ渡る顔でディミトリは跳ねるように階段を駆け上がっていった。

残されたザレンはため息をついて独り言を吐く。

女主人と下僕 タコ挿絵

「可愛い奴...可愛いが...ディミトリよ。困ったものだ。…この10年間のぬるま湯生活でわしはお前をそんなうかつな男に育ててしまったのか…そんなぬるい調子で奴隷上がりの男がこの街で成りあがって行けるとでも思っているのか?...それでは駄目だ。駄目なのだ...困ったのう...困ったのう...これは一体どうしたものか…う、ふ、ふ、ふ、ふ!」

不思議なことに、なぜかザレン爺は、口先では、ぼやきのセリフを吐きながら、なぜか、眼をギョロウリと薄気味悪く光らせて、どこかいやらしい表情で、酒を舐めては、いつまでも愉悦の笑いを漏らしていたのだった。


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