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3-2 下僕、まだまだ襲われる ~小説「女主人と下僕」~敗戦奴隷に堕ちた若者の出世艶譚~


白い掌の目隠しが取られ、一部始終の間ひたすら固まったままのディミトリが呆然として目を見開いたとき、既にマーヤの瞳からは大粒の涙がとめどなく流れていた。

「ディミトリさん...ほ、本当に...ごめんなさい...今のことはお許しになって...もう二度といたしませんから...」

「!?!?!?」

ディミトリは先ほどマーヤに襲われた姿勢のまま、椅子にちょっとずり落ちそうな感じで腰掛けた状態でそのまま固まって、ひたすら呆然としてマーヤを凝視している。

「わたくし、ずっと、ディミトリさんの事が好きでしたの...ずっとこの数年好きでしたの...本当にごめんなさい!ありがとうございました。これで諦める踏ん切りがつきましたわ。ええ、ええ、解っております。何も仰らなくていいの。ディミトリさんは私のことなど眼中にない。私のことなど、女として見てくれなくとも、充分でございます。充分でございます!既にディミトリさんには感謝しきれないほど良くして頂きましたの!」

まだまだディミトリは一言も話さず、ひたすら目を丸くして固まったままだ。

「でも、それでも、せめて、一回だけでもディミトリさんに口づけしたかったの。今も好きだし、これからも簡単には忘れることは出来ませんけど...とにかく努力しますわ...もう二度とこんな強引な、はしたない事を無理やりしたりは致しません。ですからどうかご安心なさってね。これからはまたいつも通りに友人として、どうか、お付き合い下さいませね....決してしつこくしませんから…できれば..どうか必要以上にはお避けにはならないでね...お願いよ...ただただ、好きなの…お願い…」

マーヤは既に嗚咽が止まらなくなってきて、これらの言葉を言うのもとぎれとぎれに息継ぎしながらであったが、しかしはっきり過ぎるほどはっきりとディミトリに言い切った。そしてマーヤは止まらない涙を自分の手で一生懸命ぬぐいながら顔を手で覆って身体を震わせてしゃくりあげた。

「実は今日ディミトリさんをここまで連れてきた目的は、書庫の整理なんかじゃなくて、このことでしたの...貴方が好きで好きで...もうどうしようもなくて...」

そのまま3分、いやもっとか、ディミトリは、マーヤに手を触れたりもせずただ呆然と、目の前の、いつまでも泣きじゃくるマーヤを見つめていたが、やっと口を開いた。

「ばかな。...俺は敗戦奴隷の下僕身分ですよ」

「存じております」

「猿面の色黒の鼻の穴のでかい、ブ男だ」

「愛嬌のある素敵な男前でいらっしゃいます、わたくしディミトリさんのお顔、大好き。その大きな真っ黒のお優しい目が好き。もちろんそのお鼻も、ぜんぶ、心底、大好き」

「多淫で残虐と評判のゾーヤ人ですよ、身体もいかついし...気味が悪くないんですか」

「一体何が気味が悪いはずがあるの?逞しいのに、どこの優男より、子供やら老人にまでお優しいのに」

「見ましたでしょう、ぞっとしたでしょう、ヨサックを怒鳴りつけた時の俺の、醜い、あさましい姿を」

「美しゅうございました。闘技場の街一番の闘士のようでした。見惚れておりました」

ディミトリは泣きじゃくるマーヤを、言葉を失って、肩で息をしながら、長い、長い、長い間、見つめていた。

確かにディミトリも、変だな、とはいままでもときたま思っていた。

確かに、マーヤは、身分の低い者に異常なまでに優しい人だ。くず拾いの婆さんにだって、しゃがんで目線を合わせて敬語でしゃべるような人だ。

だが、それにしたって、ディミトリにたいする振る舞いは、確かに、下々の者への慈しみをどこか逸脱していた。

ディミトリの脳内でばらばらに漂っていたそういう小さな小さな違和感がパズルのピースのようにかっちりはまったようになって、これは本当の事なのだ、とやっとついにディミトリは理解した。

そして、ディミトリは、ザレン爺が言っていた、「ザレン茶舗で全店の筆頭にのし上がってみろ、ザレン茶舗をもっとでかくして見せろ、ガツンと稼ぐ男になればマーヤを手に入れるのも夢ではないぞ、マーヤ殿はお前に気があるはずだから」という話を荒唐無稽のからかいではなく、現実のザレンの本気の誘いであったことを、いまさら、ようやく、ようやく、理解した。

ザレンは、本気で「お前なら成り上がれる、もう身分よりカネの時代だ、今の時代なら出来る、稼げ、地位を得ろ、競争相手を蹴散らせ」とディミトリに焚きつけていたのだ。

ディミトリは、目の前の泣きじゃくるマーヤを、食い入るように見つめた。

自分の人生には決して関わらない高貴の女性としてではなく、裸に剥いて喘ぎ声を上げさせ、とことん抱くことができるかもしれない、村娘どもと同じ、生身の女として、はじめて本当の意味で意識して、目を光らせて食い入るように見つめた。

「...マーヤ様...今の私には本来こんなことが言える立場ではありませんが...だから...せめてまずは市民権を取りましたらもう一度言わせて頂きますが...私はずいぶん前から長いこと、マーヤ様、あなた様が好きです」

うつ向いて嗚咽していたマーヤの肩がビクッと跳ねた。ディミトリはマーヤの耳元に、熱い息がかかるくらいに、唇を寄せて、かすれた声で繰り返した。

高貴の人にするようにではなく、村娘を村の男が口説くように。

「聞こえますか、俺は貴女が好きです...好きです...もちろん前々からずっとお慕いしておりますよ…はじめてお会いした日から気になって目で追ってしまっておりました...あの、どうか泣かないで。とりあえず、まず、御手を取ってよろしいでしょうか?」

マーヤが恐る恐る片手を差し出したと同時にディミトリはその手をそっと取って自分の頬に押し当てた。手を掴まれたため、さっきまでうつ向いていたマーヤは上に引っ張られて泣きはらした顔を起こした。今度はマーヤの方が呆然としている。

「あの、本当に...?私のことがお嫌いではないの...?」

ディミトリはマーヤをじっと見つめた。恥ずかしそうな様子はあったが、いつものように目を逸らしたりはせず、じっと見つめたまま答えた。

「一体全体、何でそんな誤解になったか解りません...そりゃ貴女のことは、俺なんぞには絶対手に入らない方だと、はなっから諦めてはいましたよ?ひたすら一生遠くから憧れるだけの方と思ってましたよ?だが、諦めてるにしたって、腹の中の、本当は好きだって気持ちまでは消し去ることはできねえ。店中の者もいつも俺がマーヤ様に情けねえほど惚れているとよく囃し立てているではありませんか...?隠そうにも、俺は顔に出ちまう性質ですから、マーヤ様もとっくにご存知なんだと思っておりました。…それで...あの...仕切り直してよろしいでしょうか?」

「は?」

「つまりその、マーヤ様、お、お嫌なら決して無理強いする気はありませんが...俺から...いや、わたくしの方から口づけしてよろしいでしょうか」

「ディミトリ様、いいも何も」

「いや!失礼な事申し上げてしまい申し訳」

「そうではなくて、あの、本当にわたくしでいいんですの...?でしたら、なぜ?こないだ商談室で2人っきりでお話しした時、どうしてわたくしに口づけひとつせずに立ち去ったの…?」

「はっ?」

「あの、だって、わたくし、”商談室に2人っきりで絶対誰にも聞かれたくない大事な話“ って誘われた時に…これはついに、ディミトリ様が私に好きだって仰ってくれるんだと勘違いして...ものすごく期待しました。しかもディミトリ様ったら “防音だから、鍵が掛かる部屋だから、ふたりっきりになりたいから” 行こう、なんて堂々と仰って、…場所が場所だけに下手をすると告白どころかぐちゃぐちゃに処女を散らされる流れもあり得るって覚悟しましたわ、でも、それでもいい、とにかくもう観念したから…どうにでもなれと覚悟を決めたから、素直について行ったのですわ。そうでなかったら女があそこで素直に手を引かれてついていくはずがあります?...だから口づけもなにも、わたくし、もう観念しております。ディミトリ様さえお嫌でさえなければ、どうにでもお好きなようにして下さいませ...何をされても、嬉しいです」

「ば、馬鹿ッ…!馬鹿馬鹿馬鹿、だからあん時も男に無用心な事は言うなってあれだけ言っただろ!…いま!いま!そんな事を言われては」

「あ、こういう時は目を閉じた方が宜しいんですわね?よく解らなくて。さ、どうぞ?...あら?…あ、あの、ダメ?やはり私なんかでは、お嫌...?」

マーヤが一度閉じた目を開け、再び悲し気に目を潤ませ、つつ、と一筋涙が落涙し始めたのを見て、ディミトリは息を吸うのと吐くのを間違えたような乱れた深呼吸をした後、マーヤの身体に触れないようにしながら、マーヤの目元を自分の手でそっと覆って、ゆっくりと、唇が触れるか触れないだけの、礼儀正しい口づけを、マーヤの頬に、唇に、おでこに、耳に、髪に…顔のあらゆるところに散らした。

ディミトリはマーヤを怖がらせないようにと、自己を制して、せっかくマーヤの顔以外には触れないようにしているというのに、そのうちに、マーヤは目隠ししたディミトリの指を自分の手を添えて柔らかくどかし、しっかりとディミトリを見つめ返し、狼狽えて怯えんばかりに身体を引いたディミトリに微笑んだかと思ったら、こんどは自分から目を閉じ、ぐいとディミトリの肩を掴んでディミトリの胸に顔と身体を押し付けた。

「長い間、ずっとこうしたいと思ってましたの...太陽のにおいがする...」

「だ、ちょ、ちょっと、だから...待てって...男にそういう事を言っては...だ、だめです...」

ディミトリは、再度、息の吸い方と吐き方をあべこべに間違えたような呼吸をしながら、長い間マーヤにされるがままになっていたが、そのうちにそろそろとマーヤの背中の後ろに、長い腕を伸ばし、ついには震える腕でマーヤを抱きしめはじめた。

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昔々ロシアっぽい架空の国=ゾーヤ帝国の混血羊飼い少年=ディミトリは徴兵されすぐ敵の捕虜となりフランスっぽい架空の敵国=ランスで敗戦奴隷に堕…

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