最後の日

朝。いつも通り7時に埼玉の実家を出て、副都心線に乗る。渋谷に着くのは8時半で、スクランブル交差点を渡り公園通りの坂道をのぼる。途中のセブンイレブンでブラックの缶コーヒーを買い、オフィスのロッカールームで一気飲みして眠気を吹き飛ばす。
朝礼で、接遇用語を唱和。その後、膨大な事務処理を淡々と片付けていく。ランチはいつも通り公園通りの無印カフェ。食べ終わってぼんやりし、またオフィスに戻る。書類の封入に、電話応対に、来客対応…17時前に郵送物を投函した。

いつもの日々。
でも、ひとつだけ違うことがある。それは、今日でこの生活とお別れするという事。
埼玉の実家にあった私の洋服やぬいぐるみやアルバムは、全部福岡へ配送した。今日この仕事を終えて、実家の、空っぽになった私の部屋に帰ったら、両親に別れを告げる。
埼玉には転出届を既に出してあり、東京の戸籍も取得した。
あとは…明日の飛行機で福岡の今宿へ向かうだけ。

「まきちゃん!」
後ろからの突然の呼びかけに、驚いて振り向くと、涼子さんたちがニヤニヤしながら集まっていた。
「まきちゃん、おめでとう。」
「もう、明日から、気安く仕事頼めなくなっちゃうね」
「一年間、ありがとう。元気でね。」
みんな思い思いの言葉を述べ、最後に涼子さんが「これ、持って行って」と包みを渡してくれた。
涼子さんは、相変わらずおしゃべりで賑やかで…やさしい人だ。
「開けてもいいですか?」と尋ねると、「もちろん」と答えが返ってくる。
私は恐る恐る包みのラッピングを剥がしていった。上手に包まれているけど、デパートの店員さんが包んだにしては、ちょっと雑だ。
最後のセロテープを剥がし、ボール紙の箱を開けると…コーヒーカップが二つ。
「どこかで見覚えがない?」
涼子さんがイタズラっぽく笑う。
あ。
分かった。
「喫茶店のシャノワールで使ってたコーヒーカップですね?」
「まきちゃん、大正解!」
涼子さんはそう言い、私に抱きついた。シトラスのいい匂いがした。
「コーヒー豆も入ってるからね。福岡で良いカフェ見つけるまで、二人でこれを飲むのよ。」
少し、涼子さんの声が震えていた。ないているの?
「まきちゃん、この会社でね、私たちは接遇の気持ちの種をもらっているの。場所が変わっても、会社が変わっても、きっと育って花開くわ。だから、向こうに行っても接遇のプロフェッショナルである事を誇りに思っていてね。」
「涼子さん、色々ありがとうございました。」
そう言った私の声も、少し震えていた。

明日から、生まれ変わる私。
でも、渋谷の誇りだけは大切にしておこう。

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