モーパッサンとサガン、あるいは21世紀の交通手段について

今日は読書会だったので、自分の報告内容を記録しておく。

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違う時代に書かれた作品を2つ紹介して、その間に何が変わったのかを確認してみたい。

取り上げる作品は2つで、モーパッサンとサガンの短編。
(なお、そもそも短編小説という表現形式がなぜ存在するのか?という問は難しすぎて私には答えられないのでここではとりあえず措く。)

モーパッサンは言わずと知れた19世紀のフランスの小説家。彼が生まれたのは1850年8月5日で、この読書会は2020年8月5日つまり同じ日に行われたから、ちょうど彼が生まれてから170年目ということになる。20世紀に入る前に死んだ。自然主義の大家の一人として数えられることが多い。長編も書いたが、短編の名手と呼ばれている。
今日取り上げる短編は、新潮文庫の訳では「野あそび」とされている作品。最初の出版は1881年だそうだ。ジャン・ルノワールによって比較的原作に忠実に映像化されており、1946年に公開された。作品は40分ほど。名作と評されているようで、現在の日本でも比較的容易に(つまりネットで)映像を見ることができる(邦題「ピクニック」)。

ストーリーは、パリに住む、おそらくは貧乏でも金持ちでもない家族が郊外に馬車で小旅行というかピクニックに赴くというもの。行先はブゾンというからパリの北西、アルジャントゥイユの近郊だが、当時は田舎とみなされていたようで、だからこそ都会生活を送る家族のリフレッシュのための旅先として扱われている。ちなみに旅行の目的は奥さんの誕生日を祝う、というもの。夫妻のほかに、妙齢の娘、その婚約者及び母親の母が揃っており、旅先で娘が男にナンパされ、セーヌのボートで仲よくした後そのままいくところまでいってしまう。旅の後、娘は婚約者と結婚するが、何となく娘のことが忘れられない男がその後娘との思い出の地に戻ると娘と再会。娘も男を忘れていなかったと言うので、今後の2人の関係を暗示してストーリーは終わる。

読書会のテーマは「あつくなる本」である。この物語の何が暑いかと言えば気温である。話の舞台は夏で、さらに非常に暑い日であったことが繰り返し語られる。文芸で夏といえば解放とか情熱とか恋とかを意味すると相場が決まっているのであって、例えばシェイクスピアの夏の夜の夢がそうであるし(ちなみにこの作品が映画ミッドサマーの下敷きになっていることは原題を見るだけでわかる)、グレイト・ギャツビーでは愛と夢に燃えて因習に挑戦する人間と他の人間との異様な緊張関係が、異様な蒸し暑さによって表現されている。この作品では、夏のほかに、印象に残るモチーフとして鳥が使われている。鳥は通常解放や自由を意味し、この作中では娘にとってのロマンスの象徴であることが明示的に語られる。おそらくは検閲を気にしてだと思うが、二人の行為は直接描写されない。代わりに鳥の鳴き声で行為が暗示されるのだが、鳴き声の描写しかしていないにもかかわらずやたらとエロいシーンに仕上がっており、この辺は作家のさすがの技術力である。

そんなわけで、この作品は鬱屈した都市生活を送る都会人が解放され、郊外つまり田舎で野性的な喜びを取り戻す話と理解することができる。

サガンに話を移す。フランソワーズ・サガンは文学研究においてそれほど高い意義が与えられている作家と言うわけではない気がするが(少し前のフランス文学史みたいな本を読むと、実存主義に対して冷めた見方をするアンチみたいな語られ方で片付けられていた気がする)、個人的には大好きな作家で、「ブラームスはお好き?」では純朴年下イケメンにキュンキュンすることができる。今回取り上げる短編の題は、朝吹登水子氏の訳では「田舎への小旅行」とされている(短編集「赤いワインに涙が…」所収)。このタイトル、原題はUne partie de campagneであって、実は先のモーパッサンの短編のタイトルと同じである。サガンがモーパッサンの当該作品を意識していたかどうかはわからないが、なんとなく意識していたのではないかいう感じがする。1981年初版というから、モーパッサンの作品のちょうど100年後の発表ということになる。

ストーリーは、やはりパリの人間が郊外に赴く話である。ただし今回赴くのは家族ではない。金持ちの夫を持つ美貌の夫人、その愛人(ジゴロ)、そしてなぜ一緒にいるのかよくわからないのだが(私が読み落としたのかもしれない)いささかお年を召した男爵夫人であり、それなりに社会的地位は高い。旅をする理由もピクニックではない。舞台は第二次大戦中、ナチスドイツに占領されたパリからリスボンの港を経由し、アメリカに逃れようとしているのである。20世紀のお金持ちなので馬車ではなくロールスロイスで逃げる。トゥールのあたりの農村で、逃走は渋滞により難航する。美貌の夫人は車から見える農家の若者を魅力的だと思う。その時ナチスのスツーカの機銃掃射があり危機に陥るが、夫人はその若者が身を挺してかばって危機を逃れる。夫人を庇った若者は脇腹に傷を負う。若者は人を救うために脇腹に傷を負うというのだからこれがキリストを暗示していることはほぼ確実だと思われる。この救出によって夫人はいったん死んだ命を拾い、生まれ変わったような心地がする。もともと攻撃の際に取り乱して自己中心的かつ哀れな様子を見せていた愛人と男爵夫人に辟易していた夫人は(攻撃を受けた際にこの情けない二人に囲まれて死にたくないと夫人が思ったという記述がある)、農家の若者との間で思いやりのある愛を見つけたと思う。しばらく農家で滞在した3人、やがてアメリカに向け出発するが、今度こそナチスにやられて命を落とす。

モーパッサンの作品との共通点がいくつか見い出せることは明らかだと思う(ちなみに、サガンの作品の舞台も夏であり、渋滞中の暑さが何度か描写されている。)。ここでは相違点に着目してみたい。まず、両者ともに、都市からの解放をテーマにしていることは共通している。ただし、それが象徴するものはそれぞれ異なる。モーパッサンの場合、問題は肉体的である。都会で忘れてしまった五感の作用を取り戻す、というのがテーマだと思う。サガンの場合、事態はより厄介である。夫人が回復したいのは五感ではなく愛である。彼女は都会の上流社会の空虚さ、欺瞞といったものに嫌気が差して、人間的な愛を求めている。これはモーパッサンよりはるかに困難な解放である。五感の作用ぐらいなら物理的に都市を離れれば回復できるかもしれないが、それぐらいで虚飾に満ちた都会の人間関係から逃れるというわけにはいかない。実際、現在の小金持ちが郊外旅行に行ったところでいいリゾートホテルに泊まってインスタで自慢するのがオチである。この閉塞感を生み出しているのはいわば病んだ文明そのものなのだから、これから逃れようと思えばスツーカで秩序を破壊した上で、農家の若者つまりキリストまで動員しなければならない。20世紀の逃避は大変な難事業なのだ。

相違点その2。やっとこさ解放を成功させても、それを維持することは難しい。モーパッサンでは、二人が懐かしく昔を思い出せば再会して都会からの解放を再開することができた。サガンでは無理だ。象徴的なのは夫人が殺された後、最後の農家の若者のシーン。彼は夫人の死後も彼女のことをを時折思い出すものの、それが結局は都会の夫人の束の間のアヴァンチュールに過ぎないことを理解していた、というシーンである。モーパッサンを評してペシミスティックな作家という評価は定着しているが、ここでのサガンはモーパッサン以上である。要するにいったん解放に成功しても永続は不可能なのである。社会的地位大好き人間が真実の愛に目覚めたなどといってみても所詮は一次の気の迷い、東十条さんは常に選ばれ、重力には勝てない。

19世紀から20世紀に掛けて、解放は難しくなり、人類はますます何かにからめとられるようになったとして、21世紀はどうなのだろうか。今同じタイトルで書くとすれば何から解放されることがテーマになるだろうか。身体的接触の減少(ウェルベック)だろうか、世界のヴァーチャル化だろうか、AIによる人間の知能の凌駕だろうか。19世紀には馬車があり、20世紀にはロールスロイスが(一応)あった。わたしとしては、これらの21世紀の束縛については、まず逃亡の手段すら思い浮かばないのである。

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