「自然」と「思い」
私が本気で怒ると何故か火山が噴火し、
私の体調が妙に悪いと何故か大きな災害や事件が起きます。。
神戸の震災や地下鉄サリン事件の時なども、
私は偶々、体調でどうしても動けず欠勤の時に起き、つけっぱなしのテレビからその第一報を聞きました。
当時、私は現場事務をしていたので、翌日まだ体調が万全でないなか必死に出勤した際、
手の空いた有志で神戸へ復旧に行くプロジェクトを早速立ち上げ、
その輪の中で皆の計画を聞いていたことを思い出します。
(結局、当時被災地周辺の交通の遮断状態で、行く事は断念せざるを得ませんでしたが。)
東日本大震災で新橋や東京、横浜駅で仮眠する人々などの映像等を見掛けると、
当時には霞ヶ関勤務だったので、本当なら、私もあの中にいた筈なのに、と不思議に思います。
その前日に、
辞職で不要になった大臣室の胡蝶蘭が、私の勤めていた受付に 行き場をなくしてカウンターに置かれ、とても大きく重たい鉢植えでしたので「これ、地震が来たら相当危険だなぁ」とも思っていました。
案の定、
翌日起きた地震の際には揺れ動いて相当危なかったらしいです。
もし出勤していれば、私の席を直撃もしていたでしょう。
実は今回の熱海の災害の直前にも、あまりに妙な体調不良が続いて動けない日々だったため
「また災害でも起きるのだろうか、なければ良いな」と思っていました。
当日には激しい雨天や続く体調不良に気をとられて、すっかり忘れ、
災害に唯々驚き心配するのみでしたが、
昨日ふと、そう思っていたことを思い出し、あぁやっぱりそうなのかな、、とも思いました。。
それらの体調の悪さは、恐らく悪意的な念からのものに大概感じられるため、
そもそもそうした悪意の念を広げる人が国に増えると、
その念と場所とは関係なく、国の何処かに災害が起きてしまうのかも知れません。。
私には、
災害が起きる主要地域は、大概、悪意の発信地ではなく、
そうした困難にも他の地域と比べて忍耐できる心の持ち主の集まった地域に出やすい気がしています。。
もし悪意の発信地に直接出れば、それこそ修羅と化してしまうからなのかも知れません。
悪意の人の悪行が、逆にその身内の優しい人に跳ね返って来てしまう事があるとも聞きますが、
それと似た現象なのかも知れません。
(しかし私個人は、こうした本人以外への跳ね返りについては、死後、閻魔と侃々諤々論議したいと思っている一つです。
私は、神の意向よりも人間を優先しすぎなのかもしれません。)
火山の噴火については、私が山岳信仰修験の末裔で、その関係からかも知れません。
けれども私は、悪意的な嫉妬や逆恨みはせず(何故ならそんな事に費やせる体力を持ち合わせてはいないので。)、いつも社会の理不尽に対してしか、幼少の昔から本気で怒る事はないですし、それも相当な理不尽や身勝手が繰返された時にしか怒るまでにはいたらないので、大概、上層の優遇されている者が身勝手をし続けた時に噴火は起きているかと思います。(それに気付いてからは、なるべく怒りにしないようにはしていますが。。あまりに近年怒りたくなるような件も多く。。噴火報道で気付いて、あぁいかん、いかん、という感じ。)
私は幼少、多分3才の時ではないかと思いますが、
親の再三の身勝手に、頭から物凄い火の吹く感覚とともに「こんな大人達には私は絶対ならない!」と、とうとう堪忍袋の緒が切れた事がありました。
思えばそれは、噴火の感覚とよく似ていました。
私が修験の末裔と知ったのはこの10年未満の事ですので、勿論、祖父の家の少し普通と違う造りは知っていても、それが何故なのかまでは知らず、ただ、大きな仏間はなんとなくとても好きというか心が落ち着き、その後も誰に言われる事なく修行事や精進料理が好きで、一人で勝手にいつのまにかしている変わった子供だったよなぁ、と自身でも思ってきたのですが、修験の末裔と知り、ストンと腑に落ちた感じでした。
私は戦争体験者ではないのに、戦争をあまりに身近に感じられてしまうのは、祖父とともに修験者であった、南方で戦死した祖父の弟の影響なのかも知れません。私は物心つく前、絵ばかり描いていたらしいのですが、祖父の弟は新聞に挿絵を描く絵描きだったと、後に聞いています。
OLを病身で辞める検討の際、相談できる状況の人が皆無だったため、占いに相談した事があったのですが、その時に「割と近い先祖の30才より若く亡くなった男性が貴女のそばにいる」旨を言われたのですが、それが彼である可能性は感じられます。
幼少から、忍耐力と視力と記憶力には自負ある子供でしたが、視力は学生の頃、周囲の悪戯によりひどく低下し、記憶力はレイプ被害直後に失っています。
忍耐力だけはその後もなんとか続いていましたが、理不尽に対してだけは忍耐はしてはいけないものなのだと、十数年程前から痛烈に考え方を変えたため、今は不要な忍耐はせず、必要ならば逆に社会にぶちまけるよう、心しています。
ぶちまけなければ誰かを救えないような、なさけない世になってしまったということにも思えます。
2021.7.6筆